井戸は使用不能に?  墓石を焼いて井戸へ  敏満寺

シリアの「アレッポの地獄」(昨晩のNHK9時・・・最後の病院)の映像はショッキングでした。病院狙いの爆弾投下とは・・・

人間の究極の罪悪である「戦争」というものの悲惨無惨を苛烈に嫌というほどに知らされました。それが「一般」の弱いところ・・・子供たち・・・に向くということも。「誰も助けに来てくれない」という少女の声が耳に残ります。

幸せとは憎悪と闘争がない社会、勝ち負けを問わない、強弱を問わない社会をいうことがよく分かります。

 

昨日に引き続き敏満寺。

この大寺院は今でいう「湖東三山」と囃される天台宗寺院ラインの最北端にある寺でした(場所はこちら または2こちら)。

その地理的要因が仇したのか、現存している湖東三山とは違って完全消滅するという運命をたどります。

 

これは応仁の乱以降も依然として、寺院権威の維持のために比叡山と同様、僧兵を抱えて為政者、特に戦国大名として成長した勢力との武装闘争を掲げていたためではありますが(少々甘く見ていたきらい)、この勢力への従順は既得権益の放棄でもあり、寺存続のための選択肢としては抵抗以外は考えられなかったのでしょう。

こちら敏満寺の不運は当地でいう外敵として最も嫌うべき共通の勢力は織田信長であり、他の寺々も信長の手による被災は当然の如くありました。

 

ところがこの敏満寺という立地は京極氏と六角氏勢力の境界付近にありました。その後湖北小谷の浅井長政の対六角氏との紛争に巻き込まれて、1回目のその被災は浅井長政によるものでした。

そのあとにお約束の如く信長に蹂躙されてこの世から消滅してしまったというわけです。

1度ならずとも2度までも火をかけられてはしょうがないですね。再建の気持ちも失せるでしょう。

 

以前記した大門側の入口に対し、通常この敏満寺址(現胡宮神社)に参るには多賀神社側の駐車場の整備された入口から入ります(①画像)。

入ってスグの史料館は何故か閉館していますがその先に左に折れれば磐座方面に登る道があります。そして左ではなく右側に「古井戸と焼け石」との看板が見えます。

 

こちら敏満寺には夥しい墓石が出ていますが、この墓石の山は井戸に投げ込まれていたものを拾い集めたといいます。

墓石の破片は焼け焦げているといいますので(見た目は風化と劣化があって黒焦げた感じではありません)私はその件あらためて「なるほど」と思いました。

 

いくら寺が憎たらしくてもわざわざ墓石を集めて木材などを重ねて焼いたりはしませんね。

これは井戸を使えなくするやり方でしょう。ただしこれは私の推測ではありますが。

 

攻城戦により攻め取った城などを今後利することがなければ、残党等の反抗勢力がやすやすと籠城できぬよう水利を絶って退却することは当然のこと。

毒や糞尿を流して水利汚染させる方法は安易でよく聞きますが、この焼け墓石放り込み作戦は水の手を蒸発させて止めてしまうというところ、結構効果があったのかも知れません。

一番の恐れおののく点はやはり亡き人々の墓標を火にくべてから井戸に放り投げるという人道を無視した悪業であることは言うまでもないことです。

 

この所業は織田信長の手によるものといいます。

やはり異常者です、あの男。本能寺が仏罰であった・・・などもまんざらではないですね。