拙寺に唯一残る葵御紋と東照大権現  東御門巽櫓

昨日記した「7つの認知症危険因子」の中に「飲酒」が入っていなかったことは少々驚きましたが、なんでもかんでもアルコール=酩酊を招き「体に良くない」と思うのはイケない固定観念でした。

もっとも④高血圧⑤糖尿病に関して飲酒というものが微妙に関わっていそうでやはり「過ぎたること」はダメでしょうね。

 

私の叔母(毎度頻出)は若かれし頃、池新田で飲み屋の女将をしていましたがアルコールは一滴も飲めません。

ちなみに色々な「無茶苦茶噺」を耳にしていますが当時は現在に比べて社会は飲酒運転に対して緩く、ぐでんぐでんに酔っぱらった客がそのままハンドルを握って数十メートル先で「大きな衝突音がした」こともあったそう。

 

その叔母は自分はアルコールに弱いという観念があり、もっとも当家はアルコール拒絶の血が流れていますが、それから発展して(酔いやすい・・・)ちょっとしたドライブでも「くらくらする」「酔う」といいます。

近場の数分程度でしたら大人しく乗っていますが15分を超えたあたりから「酔っちゃった」と決まって騒ぎ出す面倒くさい習性があります。

 

昨日は昼食後に薬局へ行って「酔い止め」を購入するよう頼まれましたが、ハッキリ言って面倒な話であって私の持論「車酔いは気のせい」を試したいということもありました。

車の中にあった「フリスク」状の顆粒のハッカタブレットを手のひらに出すと「酔い止めだね」と言って口に入れていました。

しばらくたって「どう・・・?」と聞けばスーパーマーケットで購入した芋切干を頬張りながら「絶好調」振りをアピールしていました。

やはり「心の問題」(「乗り物に酔う」という昔からの固定的刷り込みが自らをその状態にさせる)と確信した次第です。

 

さて、以前より拙寺の大御所(徳川家康)との縁について記していますが、古文書の記述には残りますが、モノとしてそれを強烈に印象させるものは唯一コレ(上記画像①~④)だけです。

 

金色に輝く葵の御紋と東照大権現の文字が主張する位牌状のモノです。

こちらは当家過去帳によれば宝暦四年(1754)に早世した小田平右衛門の息子幸次郎(法名 釋早夢)十二歳の菩提を弔うためと、現世繁盛の感謝の思いを込めて拙寺に寄贈したものです。

ちなみに小田平右衛門はその10年後に亡くなっています。

また小田家は野村家と並んで市場で廻船業を生業としていた家で時代的には田沼が相良に入る前の事。

 

安永三年(1774)に新町の大澤寺が火事により燃えていますがその際こちらは持ち出されたということですね。

家康の寺領安堵の朱印状はその際に焼失しています。

ご本尊、過去帳、御軸など今目に見えるものたちは当然に火の手から逃れたのでしょうが他の貴重な物品もおそらくはその火災で焼けてしまったことが考えられます。

 

そういうことで拙寺に残る「葵紋と家康」に関わる物品はコレのみということになります。

おそらくですが、明治維新の際、須弥壇奥に片づけられたのではないでしょうか。私がその奥から引っ張り出してきましたのでそれ以前は表に出ていなかったもので檀家さん皆さんは知る由もありません。

次回春の法要にてお披露目しようと思っています。

 

尚、裏に張り付けてある白い紙は封状になっていて、何かが入っているようないないような・・・私はこれまでそれを判明させようとそれを剥がすことはしていません。

 

もし何も出て来なかったらどうやって元に戻すかを考えなくてはなりませんので。しかし「もしかして・・・何か新しい発見」があるかも知れないという微かな期待はあります。

どこかの機会にチャレンジしてみたいですね。

何しろデカくてそれでいて不安定。

2017-1754=263年モノです。

 

記されている「誠諦院殿御筆」にも興味津々。

この誠諦院は拙寺過去帳にはありませんので檀家中ではなさそう。

今のところハッキリしませんが誠諦院=牧野忠敬(1729~1748)という人がいますね。

越後長岡藩当主ですが朝鮮通信使接待役ほか江戸城に詰めていますので何らかの接点は考えられます。こちらも今後の課題です。

 

以下は大御所の駿府城二の丸東御門。以前も記したことがあります。以下、そちらで拝観可能。

鎧は今の大河ドラマで家康が着けているものと同じレプリカです。最後の画像は家康としては珍しい細身で渋い感じを漂わせています。