つい戦国時代を思う地名「寄子」  坂口谷川沿い

大河ドラマでは井伊直親が信州から10年の空白を埋めんと井伊谷に帰ってきたというのが今回のテーマでした。

これでこれまでの子役さんシリーズは卒業ということで。

 

私がひとつ「ほう・・・なるほど・・・かも」と勝手に推測したのは最後の名所紹介シーン。

井伊直親の遠州帰還は井伊谷に入る前、まずは渋川の六所神社に立ち寄ってあの「笛を奉納した」との件です。行きも井伊家由緒の渋川ならば帰りも渋川経由ということはごく自然です。

 

それにより、「なるほどね」となったのですが、後世あの地に「凱旋門」ができたのもその件をも深く意識してのことだったのかもしれない・・・と。

成長した直親の遠州帰還は当時の井伊にとっては「凱旋」に近いものがあったでしょうね。

ただし直親の「凱旋」も結局は空しい結末を迎えることになりますし「戦 いくさ の時代」というものの悲惨と不毛はいつの時代も共通です。

 

また昨日は「東福田」(ひがしふんだ)について記しましたが「東」があれば「西」があるのは事の常、しっかり「西福田」もあります。

ちなみに「東福田」には真宗門徒の所在が比較的多く、苗字としては「鈴木」が多いと聞きます。

元は広楽寺の門徒衆だった名残なのかも知れません。

 

私どもがお世話になっている榛原病院は国道150号線の北側に位置しますが「西福田」はちょうど国道を挟んでその南側あたりの地名になります。

その「西福田」からさらに南の地点が「寄子」という地になりますが、150号線には「寄子橋入口」交差点の地名があり、昨日記した坂口谷川には「寄子橋」、近くには「寄子神社」とこれらも地元ではお馴染みの地名となります(場所はここ)。

 

またこの寄子橋の手前の川っぷちには自動車教習所があってこの辺りの住人でなくとも各地から若い人たちが合宿で免許取得のために訪れているような場所です。

 

どちらも海抜が低く、遠州特有の隆起によっての現状宅地化の歴史は他と同様でしょう。

大きいくくりでは「細江」という名称ですが、その地区の古い字名は「濱田」とも。

細い入江(細江 坂口谷川?)の海に面した田(濱田)と勝手に推測すれば砂浜に接した湿地帯(田の意)をイメージします。

 

現在は150号線の寄子橋入口交差点から寄子橋を結ぶ道路の北にピアゴというショッピングセンターがありますが、表記住所に「濱田」と字名が記されています。

ひょっとするとちょうどこの道路辺りが湿原南端で、その南方は海岸線が迫っていたのかも知れません。

すると遠州海岸線の他所と同様(相良に関しては200~300mと少な目のような・・・)に遠州横須賀に匹敵するくらい(約1㎞)隆起しているのかと思えます。

 

その「寄子」なる名を見て私などはついその対となる地名を探してしまいますが、本来のその地名(寄子)とは語源が違うともいいますから何ともいえません。

 

まぁ勝手に連想したその対とは「寄親」ですね。

「寄子ときたら寄親」は切っても切れない歴史用語ですからね(寄親寄子制)。

以前記した小田原の北側「松田」の「惣領と庶子」と同じような感覚でしょぅか。松田町には確り地番として残っていました。

 

意味合いとしては同家同系の分脈(主家-分家)によって「家」を継承した者を頂点にその分家を家臣団にして構成させるのが「惣領-庶子」の関係ですが、「寄親寄子」は同じ主従関係でも殆どが地縁的なものが主(在地領主制)で「保護-被保護者」「支配-被支配者」の関係が強く、その戦国期の関係は「イザという時の戦争参加―所領の安堵」が主だったでしょう。

 

要は「陪臣」(家臣の家臣)という語がありますが、守護大名の家臣団のそれぞれを「寄親」その配下を「寄子」と考えるのが(いかにも素人的ですが)早いかも(陪臣というくくりでは語り得ない!)。

つまり地頭クラス(国人・・・)を重臣として家臣団に組み込み「寄親」とし、在地有力名主・土豪クラスをその配下に「寄子」としてその関係を作ったものですね。

 

専門家、小和田哲男先生(「今川家臣団の研究」)によれば

「在地における寄子は戦国大名の武将である寄親に預けられ、実際の村落の支配にあたっていたのではあるが、寄子は寄親の被官ではなく、あくまで大名の被官として把握される」そしてそれは「ただ戦時における軍事的側面だけにあったのではなく、寄子の持つ旧来からの村落における地位を利用し戦国大名の権力の末端として位置づけられる」とありますので家臣団構成要員ではあるものの、微妙な関係をも匂わせます(親と子の関係はその上の大名次第)。

寄子が寄親に従属する堅い信頼関係を持つというよりもやはりそれは寄子以下の土豪レベルの地縁的結合を統括しようという試みがあったのかと思われます。

 

以上の如くその語は歴史的に特に戦国大名の家臣団構成については頻出のものであってまた「寄子」という地を頻繁に通過している私は、その地の本来の意とは違う「寄子」であった(ただしあくまでも説)にしろ「何という名称が・・・」と思い込み激しくそれらに関わる人々について想像を巡らすのです。

 

ちなみに「寄親寄子制」といえば身近なところで今川家のそれを真っ先に思い浮かべますが、この地を治めた武田氏にもその制はありましたね。

今川―武田とその家臣団構成が崩壊しまたその後の徳川―豊臣―徳川とめまぐるしく変わるトップに対してその地域の人々が地縁有力者とともにどう対応していったかという点、興味が湧きます。

 

寺が一向宗徒を率いる名主的役割をしていたとすると・・・

広楽寺が「山の向こうに行ってしまった」という言い伝えがあるようにあの場合は強制的に地縁的結合は途切れさせられたのでしょうか。

またはその下に別の名主が居たのかも知れません。

すべてあの「寄子」からの想像でした。

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (月曜日, 06 2月 2017 01:13)

    読んでいてなるほどと思いました。私も直虎見ておりますが、その辺りのことを知って見るのと知らずに見るのでは面白さもかなり違ってきますね。

    歴史好きですが、僕の場合かなり偏りがあるので幅広い知識が凄いなと読ませていただいていつも感動しております。

    石山本願寺日記、広済寺の名や益田の真宗寺の名前は結構登場しています。当時から幹部クラスのお寺なのでしょうか…。内容はやはり僕にはわからずそこから拡がる気配がしませんでした。

    宗門関係者の今井さんがこれを読むと発見が多いかと思いました。




  • #2

    今井一光 (月曜日, 06 2月 2017 08:25)

    ありがとうございます。
    「広済寺や益田の真宗寺」が登場してくるのですか? 凄い。「石山本願寺日記」!
    「浄了」の件もそうですが、昨日もご紹介いただいた「岳南史」といずれ目を通してみたいと思いました。