戦国の農民と農村 武田氏発行 平田寺安堵高札

寒波寒波とそうは続きません。相良は風もなく比較的穏やかで気温も下がりませんでした。

都内では20日の南岸低気圧の通過予報でスタッドレスタイヤやチェーンにスコップが売れたようですね。

其の後当初の低気圧のコースと発達のタイミングがずれて関東地区はさほど荒れないという予報に変わりました。

各対応商品を扱うお店は思わぬセールスができてほくほくの感。先日の金閣寺と同様です。

私はこの機会に先日の強風でバラバラになった木塀の2度目の修理に着手しました。

 

1度目は杭で支えるだけでしたのでアレでは自然の猛威に抗えるはずもなく、予想通りではありましたが、いともカンタンに壊れました。今回は支柱2本を購入し腐っていたそれと差し替えました。

驚いたのはやはりその塀の件、近所の方々は気が付いていて、皆さん同じように「直ったね」と声をかけていきました。

中には、風の仕業ではなく近所の悪ガキの仕業だろうと思い込んで「けしからんことだ」という誤解の方も。

また、「お金がかかるね」とのご心配の声もありましたが、支柱2本以外はあるもので対応していますので大したことはありません。何よりも自前対応ですので人件費不要というところがデカいですね。

余りにも見苦しい様子であったことは違いないことで、少々修復着手が遅かったこともありますね。ご心配をおかけしました。

 

さて、かなり前に「村上海賊の娘」(和田竜)という戦国時代それも石山本願寺を舞台にした本を手にしたことを記したと思います。

その後まったくそれについて触れていませんでした。

それはなぜかというならば、ベースは史実にしろ主人公とその周辺の超絶度がマンガ的だったことです。

しかし当初はこの手のものは映画化されるものだと思っていましたがそんな話は聞こえてきません。

世間様から見ればマイナーな話ですから仕方がないことかも知れませんね。

 

最近では司馬遼太郎原作の「関ヶ原」のキャストが決まったとの報がありました。意表をつきましたがこちらは同じ戦国でも「ど真ん中」ですから案外アリなのかも。

ストーリーが散逸して「描き切れない」のでは・・・という余計なお世話もしたくなりますがどうでしょう。CG駆使の映画でしたら勘弁してもらいたいところ。

「壮大」を思いますが封切が早いところがそう感じさせますね。

 

「村上海賊の娘」に戻りますが、「ん?」と気になったのが信長軍と闘う本願寺門徒軍の描写でした。

「女子供と老人を主体とする」と見誤るところ・・・。

一向宗徒VS信長精鋭で、力関係が雲泥の差のようなことが記されていましたが私はそれは「ちょっと違うだろう」という違和感が後をひいてしまっていたということもありますね。

 

農民を江戸時代の完全統制下にあった「水呑百姓」の類と勘違い?

 

戦国の農村(惣村)に関しては先日、瀬戸方久の出自に関して記しましたように、武士たちとは別に権利関係の村単位の紛争(水公事・山公事・牛公事・・・)があって戦国期では村の境界線には掻揚土塁を廻らして武装化していた例も各知られています。

略奪に作荒らし、乱取りは当たり前の世の中ですから、防備のための武装はこれも当然。

中には、公事用キープの「乞食」とは別に侍衆を確保して万全を期していたともいいます。

 

たとえば、歴史上「落武者狩り」なる地域農民による追いはぎ行為を聞きますがそもそも「農民=鍬鋤鎌」との発想での「武器」だけを持って負け戦に敗走する落武者たちとはいえ、それでまともに彼らを制圧できる筈がないでしょう。

穴山梅雪や明智光秀など一線級の武将まで命を落としているくらいです。

またそういった戦利品を蓄えて戦場に出ていたのです。

それが農村の慣例であったということも面白いところですね。

負けた者からは「トコトンむしり取ってイイ」という社会の了解事項でした。

 

秀吉の時代になると「刀狩り」というカタチでの施策をとりますが、その法令そのものの存在こそ農村の武装解除、農村勢力の弱体化を狙ったものであって、為政者自らの地位への脅威を感じたがゆえのこと。

柴田勝家の刀狩りの例もありますが、腹積もりでいえば一向宗門徒の完全武装解除もあったはずです。

よって農民=女子供と老人ばかり=戦闘に弱い・・・との連想は歴史を見誤ります。

 

それは老若男女区別なく戦場に赴いた例(後世あと付け物語風の脚色の件がありますが「清良記」なる戦国期農村の史料に詳しい)は聞きますし、本願寺内にも勿論少なからず籠城していたでしょう。

ただし兵糧の件も考えれば信長軍に対峙できる戦力をある程度限定することは必然、戦闘員になり得る者主体の籠城をすすめている筈です。

「農工具を武器とした農民主体(烏合の衆)」のニュアンスは「ちょっとね」という感じでした。

 

また、乱取りと狼藉は惣村含めて、村内の寺社もそれは警戒すべきポイントであり、新しい為政者にはあらためてその聖域の安堵と保証を求めていきました。それも「基本」ですね。

 

相良の平田寺には武田氏発行のそれらが残っています。

(こちらも)。

 

①「武田家禁制」

定  平田寺

 

当手軍勢甲乙人等

於寺中不可致濫妨

狼藉 若至違犯之

輩者 可処厳科之旨

被仰出候者也 仍如件

  天正四年       長坂五郎左衛門尉(武田家家臣)

   九月十一日          奉之

 

②「武田家高札」

高札 □□□(平田寺か)

 

当手甲乙之軍勢 於

彼寺中不可濫妨 

藉 若有背此旨者

可被処厳科者也 仍如件  跡部源三郎(武田家家臣) 奉之

 

天正二年甲戌 五月九日