真宗寺院でも古い創建  お多賀さんの門前 西徳寺

愚息を京都に送りがてらに「お多賀さん」方面へ。

といっても初詣ではなくその門前に地味に佇む真宗大谷派の西徳寺が目的です。

 

1月も成人式もすぎたあたりとなれば落ち着いているかと思いきや結構混み合っていました。

神社の「多賀」の名と近江野村とも関わりのある系と思料する「多賀氏」の件もありますし、近江湖東を歩いていて「お多賀さん」の名をしばしば耳にしている身としては一度くらいは目にしたいとは思っていましたので西徳寺境内(場所はここ)をブラついたあとふらっと「お多賀さん」へ。

 

こちらの神社も明治の廃仏毀釈までは神仏習合体で「神宮寺」として末寺を多数抱えていたようです。当時は「多賀大明神」として親しまれていた愛称が「お多賀さん」なのでしょう。

どちらへ伺ったとしても私は「南無阿弥陀仏」ですが、本殿の威容は圧巻です。こういった渋みのある姿はイイですね。

太鼓橋は太閤橋とかけて呼ばれたようですが、石柱の構造は「なるほど」と思わせました。もちろん、それ(太閤)はこの神社の強大有徳人(スポンサー・パトロン)に秀吉がいたということです。

 

さて、西徳寺は真宗寺院でもかなり古い歴史のある寺です。

境内石標によれば聖武天皇勅願、天平八年(736)行基によるとあります。当初は「無量寿山天平寺」と称し阿弥陀仏を本尊とし

他にも阿弥陀仏を多数製作し多賀社の本地仏になっていたとのこと。初代天台座主義真はこちらから出てその後承和二年(835)に法相宗から天台宗に改宗。そののちに建長七年(1255)親鸞聖人が関東から京都に戻る際、この寺に3日間滞留した御縁もあって永正二年(1505)真宗に改宗、「西徳寺」としたといいます。

元亀元年(1571)織田信長の兵火により灰燼に帰するのはこのあたりの大寺院の運命。七堂伽藍すべて焼失したそう。

元亀四年には顕如の命を受けて僧證慈は門徒760人をもって石山合戦に参加し討死にしているといいます。

 

冒頭画像は寺の門前の掲示板。とてもいい言葉ですのでアタマから。

「合掌とは ありがとう と ごめんなさい の心

                  忘れてはならぬ心」

こちらにお目にかかっただけでお参りにきた甲斐があったというものです。しかし本堂はピシっと閉まっていたのは残念。

あの人出の中ついでに本堂に上がり込まれたとしたら「ちょっとね・・・」と思います。

⑤⑥は墓域。⑦の「たがはし」絵馬通りの左側が西徳寺、右が多賀神社になります。③は西徳寺の門越しに多賀神社方向を見た図。門前の土産物屋等にはおしゃもじが。

「お多賀杓子」のお守りが売られています。