所感「学者」は人柄・・・近江浅井氏(小和田先生)

また酷いヘマをやらかしました。

昨日の法要は某故人の三回忌。

「表白」(ひょうびゃく)という導師(ここでは私・・・)の法要に対しての所感を文章にしたものを拝読しますが、個人の名前を間違えて読んでしまいました。

 

「一」という文字を「カズ」のところ「イチ」と・・・

言い訳を記しますが、この「カズ」か「イチ」に関してはちょうど今、頭の中で無茶苦茶になっている時なのでした。

 

その故人の名前に関して「間違えた」では面目がありませんのでしっかりとその読みについて直前にも確認していたほどでしたが・・・。結局はイイ調子で発声ができていただけに残念なことしきり。しっかり頭を下げてお詫びいたしました。

 

故人の法名に使っていた「イチ」の読みにつられて、続けざまにそのお名前を「イチ」読みしてしまったことも否めませんが、この件は最近「私の名の読み」について色々なところから問い合わせがあって、同じことを繰り返し口にして、弱い頭が混乱しまくっていたこともありましょう。

私の名「一光」を俗では「カズミツ」読みであるものの法衣を着た僧籍なら「イチ」と読んで「イッコウ」です・・・などと・・・

 

とにかく2択の場合、弱い頭特有の変なローテーションがあってどちらが「正」なのか突然入れ替わってしまうという例でした。仮名をふっておかなくてはダメですか・・・もう・・・溜息が出ます。

 

さて昨日の拙ブログにて「城郭考古学」の第一人者、千田嘉博教授の物腰の柔らかさと人懐こい性質についてちょこっと触れさせていただきましたが、私の知る限りにおいて尊敬すべき「大きな知識」(学術研究者の権威の方)は概ねその人柄がイイのです。

アタリがソフトで理路整然としたわかりやすい解説、そして不詳についてはハッキリ「わからない」といいますね。

 

そして何より非論理的、あるいは荒唐無稽な推測は示さない、またそういった「逸脱」があるとすればその旨提示し、聞く人を決して「論破しよう」などという態度は見せませんね。

藤田覚先生も小和田先生もあの経済学者の植田和男先生もみな同様です。

 

昨今、肩こりに対して「幽霊が取付いているから」といった「DeNA」社による胡散臭いサイトの件が世間を騒がせていましたが、そういった詐欺師まがいの論調は一切ありませんから。

 

当たり前といえば当たり前、なぜなら「学者」だから。

裏を返せば学者になるにはまず人間性なのか・・・

それとも徹底的に何かを紐解こうと励むことによって「人間」というものを作り上げていけるものか・・・などと考えています。

 

 

ここで小和田先生の一冊を。

ちなみに私は時折、これ見よがしに各書籍古文書、経典等をご紹介していますが、今のところそれらを並べ立てて悦に入っているだけのコレクターまがいの者でございます。

 

「近江浅井氏」という新人物往来社から出ている書籍ですが、小和田先生といえばだれもが今川氏研究の第一人者と口にするところですが、研究初期の頃のフィールドは「北近江」だったのですね。

昭和47年頃よりの執筆ですが、それは先生が28歳です。

そもそも私がその本を手にしたのは巻末の「オマケが欲しくて・・・」なのですが、今となっては私の趣向は「遠江の前に近江」を齧ってみたいというところですので、この書籍は時折眺めさせていただいているところです。

 

「江州佐々木南北諸士帳」もすべて書写し終わり、左側のナビゲーション中段に並べ終わりましたので、今度はその上記オマケの「嶋記録」に羅列される武将たちの名を記してみたいと思っているところです。

まあそれはゆくゆくのこととしてまずは高天神城の顔ぶれを追記することが先でしょうか。

 

尚、「江州佐々木南北諸士帳」についてはかなり適当に写していますので誤りもあるかと思います。

あくまでも参考ということで。

 

「嶋記録」は江戸期に記されていて追記的な個所も多くみられるようですが、当時に於いてかなりの文献をあたっている様子も窺えて、「浅井氏や戦国期の在地領主の動向を詳しく追いうる」(小和田)ということで近江を知るうえで必需となる史料ですね。

 

「嶋」といえばまずは石田三成に乞われた嶋(島)左近が著名ですがやはりその系を示唆する件、少なくないようです。

その嶋氏は他の岩脇氏・井戸村氏らとともに国人領主、箕浦城の今井氏流です。

 

何度か記していますが、拙寺初代の近江安土の土豪「今井権七」の「今井」との関連性は当家伝承には触れられてはいず、全く不明なところではありますが、普通に考えればこの「今井」との関連性が浮かんでこないワケがないほど近江では外すことはできない国人領主。

 

その今井氏は「江北記」に京極氏根本被官の筆頭に記されているといいます。「江北記」に関してもいずれは「眺めて」みたいとは思っていますが、その「嶋記録」を捲っていると「今井権六」の名が見えて「討死の事」などと記されていれば「ひょっとして・・・」などという気持ちになるのも無理はない話です。

 

まあこの件はただの「偶然」でしょうが、気持ち的には「他人とは思えない」くらいに感じるところがあります。

今井権六といえば、奈良県橿原市今井町の今井山称念寺のご先祖(開祖)もその名権六で近江出自はわかっています。

 

男子多数で「六」の次は「七」と機械的に命名することもあれば、唐突に順序関係なく大きな数字をもってくることもあります。

要はまったくわかっていないところでこれ以上のことを証拠なしで記せばハッタリになるというもの。

学者というものは、その手のことはいたしませんね。

 

私はそういった学者という知者の知恵の部分については到底追いつけるワケがありませんので、人間性の厚みの方を真似できればと思っています。

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コメント: 6
  • #1

    野村幸一 (日曜日, 18 12月 2016 13:50)

    今井さんの名前、歴代住職の名前を教えていただくまで法名なのかな?と思っておりました。実は先代ご住職の文英師の名前もずーっと法名かと思っておりました。

    僕が名前を付けてもらうとしたらどんな感じになるのでせう(^.^)やはり、実名の一字を入れるのですかね?

    先日、インフルエンザの予防接種をしに嫁の昔の職場へ家族で行ってきたのですが、そこの先生は数年前に急に僧侶になったそうです。こちらとは宗旨が違い九度山方面だそうです。その先生の法名は実名の一字が入っていました。

    真宗の法名は戒名ではないということなので故人となってから付けてもらった法名は仏弟子としての個人名と解釈してよいのでしょうか?

  • #2

    今井一光 (日曜日, 18 12月 2016 19:13)

    ありがとうございます。
    法名にあたっては歴代住職の癖が出ますね。
    祖父、曾祖父は「実名一字」の今の風習はなし。
    殆どと言って浄土三部経から引っ張ってきています。

    私はそういった決まりを持っていませんが、生前に法名をいただいていない場合は
    ご家族と相談します。大抵「一字入れてほしい」の要望はでてきますね。

    尚、真宗の法名は「亡くなってからつける」ものでなく、できるだけ生前に名乗ることが
    推奨されています。

  • #3

    野村幸一 (日曜日, 18 12月 2016 19:41)

    ありがとうございます。
    それでは、墓碑にも彫られているように野村庄右衛門寿量の表記で良いわけですね。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 18 12月 2016 21:29)

    俗名に法名を続けざまに記した例ですが、「寿量」の頭の「釋」が省略されています。
    過去帳では「釋寿量」です。

  • #5

    今井  定秀 (火曜日, 30 5月 2017 01:48)

    はじめまして 観音寺城付近の日吉という場所に明治まで居住しておりました 今井氏支族の末裔の者です 今度 寺院に向かいますので400年越しの同族面会を御願い致します

  • #6

    今井一光 (火曜日, 30 5月 2017 07:46)

    ありがとうございます。
    定秀様のお名前の「秀」はご先祖の通字が推されますね。
    是非にお会いできればと思います。