近江出自の姓氏を知る「近江佐々木南北諸士帳」を2/3程度

昨日は遠州地区ポカポカ陽気。

さすがに朝晩は冷えますのでやはり冬は冬・・・

この地の「寒い暖か」の体感の差は間違いなく風の有無につきますね。

ということで昨日午前の遠州は「無風」だったということ。

薄っぺらの法衣でちょろちょろしていましたがまったく問題なしの一日でした。本堂に傾いた陽がかかったあたりから境内気温は下がって家の中が恋しくなっていきました。

 

世はクレーマー跋扈の如く・・・。

いわゆる自己主張の一種なのでしょうが、「ひとこと言わなければ気が済まない」という方は多くなったようですね。

よって地方の田舎寺の些細なあの件が他の同種の似た事案の増加とあいまってメディアで再び取り上げられるようになり、再び私ごときが顔を出すようになったというのが昨今です。

 

昨日はTBSの「ビビット」という番組の方たちと境内でお付き合いしました。余談ですがレポーター、ディレクター、カメラマン3名とも女性で「おお!この世界も女性進出!!」と驚かされました。本日8時~10時に「放送します」と仰っていましたよ。

 

クレームはそれはそれでいいのですね。

発言の自由を抑え込んだり、何も言えない世界を作ってしまったら行き着く先がどうなるかは歴史が教えるところですから。

 

物販業にお世話になっていたころは「クレーム処理はまかせて!!」と「難アリ」含めて「お客様対応」には特に自分としては「嫌いじゃない」私のお仕事でした。

ちなみに叔父は不動産業ですが、仕事の先を競売(けいばい)物件に特化しているところを見てもその性質がわかりそうなもの。

要は「ややこしい方々」をどう説得して解決させるかが腕のみせどころとなります。

ご存知の方もいらっしゃいましょうが普通は権利関係が複雑に入り組んだそんな物件は「やばそう」「面倒」としてハナから検討から除外しますね。そこをいじくってどうのこうのする仕事です。

 

まぁそんなこんなであの「クレーム」話(「除夜の鐘がうるさい」)が思わぬ展開を見せていますが、昨日も私の予想通り関西弁の電話をいただきました。

きっと関西方面でもあの放送があったのでしょう。

 

面白かったのは「ごちゃごちゃいうやつはイテまって、そんなん まけたらあかん がんばりや」でした。

これはクレームではなく「激励」の類でうれしさもありました。皆さんテレビを見たあとHPで検索して電話しているようです。もういてもたってもいられないというところなのでしょうがバイタリティとしては一目を置くべきものはありますね。

そして御一同、「一通りご意見申したら切る」ということで一応の「満足」を得ているようでした。

メディア露出の凄さを見せつけられています。

 

話は変わりますが昨晩放映されたインターネットTV(アベマTV)で鐘とは別に取り上げられていた「真珠湾ってどこ?」という街頭インタビューで殆どの若者が答えられなかったことに

「唖然呆然ボク当然 !」。

中には北海道・鹿児島だのの日本国内の地名をあげたり、「何のことやらサッパリ」という人も・・・

以前私は「18歳以上に投票権を」などと言ってましたがここで訂正させていただきます。アレがホントなら「やっぱダメ」ですね。冗談の域を超えています。まかせられませんね。

 

 

さて情報量の多さという点で近江史入門を図るのでしたらやはり標記「江州佐々木南北諸士帳」は机上に置いておきたい書物です。

特に城や地名、姓氏出自に関して少々の興味がある私には適宜参考としたい代物です。実物は布施町の方がお持ちのようです。

 

国立図書館にもそのファイルはなかったようで、興味がある方と共有すべきと滋賀県教育委員会の記したもの転写させていただきました。といっても現状は

 

 

伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡、神崎郡、蒲生郡までで、

甲賀郡、栗本郡、野洲郡、志賀郡、高島郡については今後記させていただきます。 

 

タイトルの通り江州は佐々木氏発祥の地。

以前も安土の沙沙貴神社について記しましたとおり宇多源氏佐々木発祥の氏神がありました。

この佐々木氏の流れを組まない一統を探すのが稀なほどという

時代を経ていますので、それはそれはこの佐々木一統の名は無視できません。

 

拙寺御門徒さまの一部も家もこの地より出たことはわかっていますし近江から多々全国に広がっていった結果「今がある」などというパターンと可能性も秘めています。

近江という地は京都直近の一大穀倉地帯であり、物流集積の場。

有力国人、地侍、商人そしてあらゆる人々が集まれば仏教が栄えないわけがありませんね。寺院崇敬の地でもあったのでした。

 

ただし書写といっても私が片手間に記したもので大いにテキトーなものがあります。記していて「よくわからない」部分も多々。特に「同」と重複する部分についてできるだけ「同」

ではなく書き記しました。こうすることによってネット世界で検索しやすいということがありますので・・・。

左側ナビゲーションの中段にあります。

 

アレを見まわしていて、思う事感じるところはたくさんありますがまずは「野村」住の個人名(→浅井郡①)に7つあること。

「野村」3人の他「多賀」に「狩野」です。コレだけでも歴史の深みにはまっていきそうですね。尚「野村」は他の地域にも散見されます。

 

野村     住 佐々木浅井随兵  野村肥前守貞元

    十一代信綱四男対馬守高氏末流

野村     住 佐々木浅井随兵  野村伯耆守 

野村     住 佐々木浅井随兵  野村主膳

野村     住 佐々木京極随兵  多賀左近

野村     住 佐々木浅井随兵  狩野弥八郎

野村     住 龍ケ鼻合戦討死  狩野次郎左衛門

野村     住 龍ケ鼻合戦討死  弟 次郎兵衛

 

以下画像は昨晩の「アベマTVニュース」の切り抜き。

丁寧な作りに感謝したいところです。

 

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コメント: 4
  • #1

    野村幸一 (木曜日, 08 12月 2016 09:19)

    探すといろんな史料が見つかるものなのですね。史料による裏づけや確証は無いですが、出自が近江になるので佐々木支流の野村一統だと思うようになってきました。笹紋なども武士が好んで用いたようですし。

    先日、妻の実母の実家の墓参に連れて行かれました。。私は行く必要があるの?と思いながら…

    義母の実家は渡邊姓、その墓地は区画整理で菩提寺の墓地から移転してきたそうなのですがその一角は9割が渡邊姓の墓碑で聞くと皆一族だそうで、大姓の渡邊さん!と思いながら私一人で写真撮ってました。やはり、丸に渡辺星の家紋でした。

    その墓地残りの1割の中に、四つ目結の家紋を掲げた佐々木さんの墓碑が一基。一瞬オォ!と宇多源氏佐々木氏は四つ目結ですよね?と、一瞬思いましたが、明治に入ってから勝手に付けたものかもしれないので…とすぐに冷めてしまった次第です(笑)

    テレビの影響は凄いですね…。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 08 12月 2016 09:39)

    ありがとうございました。
    佐々木の家紋について江州佐々木南北諸士帳の蒲生郡の最初に記述がありますね。
    「屋形号菊桐紋 源義秀   
    菊桐 四目結 笹林トウ 瞿麦 蛇ノ目 梅鉢 釘ヌキ 上羽蝶 三ツ藤 千扇 鶴丸 
    已上十二紋 世ニ佐々木ノ十二紋ト云是也」の記述があるほど家紋は広がり各個性を出しています。またそれぞれが派生していきますので今となっては一概に「これこれ」とは言えない部分もありますね。

  • #3

    野村幸一 (木曜日, 08 12月 2016 10:05)

    たくさんありますね!やはり、こないだの墓碑は明治になってからのものかな…?

    武家が複数の家紋をなぜ使用してるのかつい最近知りました。輿入れした正室は生涯実家の紋を使用するそうですね。戦乱の時代なんかは特に女性の身分証の役割もしたとか。今では自家の家紋も知らない人がかなりいますよね。確かに現代では何の役にもたたないマークですが、日本の歴史で文化なので後世にしっかり伝え大事にしていきたいと常々思っております。

  • #4

    今井一光 (木曜日, 08 12月 2016 14:06)

    ありがとうございます。
    「家紋」ほどの日本文化は世界に胸を張れるのではないでしょうか。
    わかる範囲のできるだけ古い時代の家紋を調べ上げて各伝えていければいいのですが。