「かもん」入力で「掃部」 井伊直政  井伊家の称

室町期の古文書など眺めていると頻繁にぶつかります。

それは「住」である地名にその受領名・官職名のみの場合などです。それでは個人を特定するに至りませんね。

 

受領名・官職名で呼ぶのが一般的な世間。どこかでも記していますが「本名を呼び合う」といった習慣は希薄で本名提示意識は今の如くではなかった(忌み名)こともありますので、これも古の家系等を調査する上での障害になっているでしょうね。

特に受領名・官職名などは父子で継承する例もありますから。

 

また国司の長官(かみ)とは別に律令制からの「寮」の官職の名称が武家の名に付けられて呼ばれることもかなりあります。

室町期はやたらとその手の非公式な名乗りが流行りますのでそれに慣れないと意味不明状態に陥りましょう。

 

四等官制の

長官(かみ)―次官(すけ)―判官(じょう)―主典(さかん)

にあてる文字が各違っているというのも慣れなくてはなりませんね。

先日も記しましたように「江州佐々木南北諸士帳」の転記作業をぼちぼち進めていますがまさにその手の官名がまたぞろです。

 

受領名の「長官」(かみ)については「〇〇守」の如く「守」の使用は流布していますが今後のこともありますので武家好みの官位の四等官をピックアップしてみました。

尚、「じょう」と「さかん」は不人気(ただし判官・主典そのものは例がありますね)ですので大分省略しています。

詳細は各お調べを。太字は私の勝手な感覚で「まぁよく見かける」と思う官位です。

 

 

      かみ   すけ   じょう   さかん

官司    長官   次官   判官    主典

 

太政官   右大臣  大納言  少納言   大外記

      左大臣  中納言        小外記

            参議

 

省         大輔

           少輔

 

職     大夫   

 

寮         

 

司     

 

弾正台       

 

兵衛府   督        大尉

衛門府             少尉

 

★武家官位で好まれて使われた令外官

 

近衛府   大将   中将   将監    将曹

           少将 

検非違使  別当   佐         志

勘解由使  長官   次官   判官    主典

鎮守府   将軍        軍監    軍曹

 

国司    守    介     

 

表記「掃部」は「掃部寮」ともいいますが宮中の官名。

他に「寮」にはお馴染み「右馬・左馬」に「右兵庫・左兵庫」があります。武家御用達の官名でこの世界では頻出です。

 

尚上記「省」には「中務」「式部」「治部」「民部」「宮内」等がありますがこちらにもお馴染みの名が出てきますね。

 

「掃部」は「かもん」と読みますが、一般のワープロでもそうでしょうがひらがなで「かもん」と打てば「掃部」と表記されるほどに古より著名かつ重要職だったと思われます。

 

その字面の如く連想すればお掃除屋さん。

今でいえば宮中の施設管理課、アメニティ部門という事になりましょう。

 

この「寮」の長官・・・「かみ」の字は「頭」を使用します。

文書等でみかける「守」と「頭」の使用の分け方は日本の「伝統」なのでした。

 

仕事がら今でも名前の「すけ」の誤記が一番注意すべきところですが、「すけ」の字にもただ命名されたものではなくその名を聞いて見て瞬時に背後にある官名と官位を連想するという判断力が必要だったのでした。

助・亮・輔・介・佐・弼・典 等々すべて「すけ」でNO.2(次官)を表わす語です。

 

さて掃部での著名どころといえば大坂の陣で大坂城に入ったキリシタンの明石全登。果たして「掃部頭」か「掃部助」は不明ですがその人の通称が「掃部」でした。

 

また「掃部頭」といえば井伊家です。

井伊家は直虎のあとの井伊直政、要は彦根藩の流れを「掃部頭家」、先般「紛らわしい」と記した井伊直勝の流れを「兵部少輔家」と言いますね。

 

「掃部」の職種はいわば「クリーナー」、井伊の赤備えは危険を顧みず勇猛果敢に敵に突進し徳川へのリスクを正面で掃き清めたわけですから、まさにその官職名は当たっているのかも知れません。まぁ彦根初代の井伊直政の戦働きと政治力一つでその後の井伊家が決まったのでしたが・・・

 

彦根井伊家は大老を複数輩出するほどの権威を幕末まで維持した稀なる家ですが、幕末の井伊といえば井伊直弼。ちなみに「なおすけ」のすけは「弼」ですね。

彼は何と側室の母で14男。それで頭首の座が転がり込んで大老まで。まぁいろいろあります。

直弼にが5歳の時にその母親は亡くなったといいますが、相当の美形だったようで・・・。

彦根佐和山城の麓、龍潭寺墓域で彼女~彦根御前要妙院~の墓を見かけました。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 06 12月 2016 09:01)

    金曜、土曜で彦根城下に研修に行ってきました。
    佐和山のふもとの龍潭寺もちょこっと寄ってきました。
    いいところでした。
    ただ研修地から彦根城まで往復1時間半の歩き。
    同行の諸氏はかなりへたばっていました。
    龍潭寺へはバスです。
    ご城下の商店街には、大学生とのコラボで活性化に取り組んでいました。
    また空き店舗対策もそれなりにされていていい勉強でした。
    夜は当然飲み屋さんへ。
    近くの路地裏には200軒ほどの飲み屋があるといい、びっくりしました。
    大きな料亭ではなく小さなスナックが多いとのこと。
    1軒目はママさんが韓国、ホステスはロシアと国際的。
    最終は純日本的なおでん屋さん。よく飲みました。
    5軒位研修したかったのですが、こちらは4軒でダウンでした。
    レポートも提出してほしいなんて、久しぶりな本当の研修でした。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 06 12月 2016 19:41)

    ありがとうございます。
    楽しそうな研修でそれも彦根とは。
    私は昼間の彦根専門で夜は詳しくありませんが、200もそんな楽しそうなところが
    あるとは驚きです。
    それではこれからレポートの提出に励んでください。大変です。