木曽街道六十九次 八風街道起点  武佐 象の道

拙寺初代の今井権七(郎)は江州広済寺の門徒でした。

信長が近江に進出してきた頃、遠江(当初は菊川段平尾)に下向したのは信長の対一向宗弾圧の施策があったことが一番にあげられます。

刀を捨てた代わりに鍬を持ち、寺を建て「南無阿弥陀仏」世界を誰にも邪魔される事なく布していきたいという信念があったことでしょう。

 

ところが石山合戦(元亀元年1570~天正八年1580)が始まってしまいます。信長と手切れとなって籠城が決まった本願寺法主の顕如さんより檄文が各地門徒に配信されたことは有名ですが、それによって再び刀を取って大坂に向かったというのが拙寺初代の動きだったでしょう。家族は置いたまま帰還を約して・・・

 

奇跡ともいえる本能寺(天正十1582)によって遠州に戻れば天正二年1574の高天神戦で寺は焼失していましたので苦労の程度が今の私たちとは違うことを感じます。

尚、石山合戦が天正八年1580に終わっているのにもかかわらず本能寺の変まで2年のギャップがあるのは、石山本願寺退去後に和歌山に移り雑賀グループと最後の抵抗籠城を続行していたためですね。権七は紀州で討ち死にしたというお話までありますので壮絶な戦働きだったことが推察されます(12/3ブログ画像参照)。

 

さて、近江八幡・安土・馬淵・五箇荘あたりをぶらつくにこの「武佐」(むさ)という字面を目にしない人はいないかもしれませんね。

広済寺はこの武佐にあります。幹線道路が交差する場所で車両の通行が結構あるのと道路が狭いことから、ちょいと車を停めて・・・というワケにもいきませんのでややこしいところというイメージはあります。

 

何度も広済寺にはお参りしていますが、そちらには駐車場がありますから安心です。寺であるのにあの城砦染みた石垣は何度見ても嬉しくなります。

 

この武佐という町は旧宿場町。

表記中山道(木曽街道)六十九次の一つとして図画に描かれています。この町を歩いてわかりましたが、この宿場に「象が一泊」したとあります。

今でこそ象を知らない人は居ないでしょうが、当時その動物は人々の奇異と驚きの対象であったことが想像できますね(本邦初公開というのではなかったようですが)。

 

何分この象は当然の如く長崎に上陸(享保十三年1728)しますのでそこから江戸まで陸路(徒歩)で街道を歩みます。よってあちらこちらで騒ぎになったことでしょう。

将軍吉宗が直々に発注したものといいます。

当初は雄雌2頭の上陸でしたが雌の象は上陸後死んでしまったとのことで残された画像には象一頭が描かれています。

 

私も子供のころから小田原城址公園の象を見ながら育てられたといっても過言ではないくらい親しみ深い動物ですが、あのデカさはあり得ないほどと感じました。

 

武佐には近江鉄道の駅がありますが、一度はホームに立ち寄ってみたいと思っていました。無人駅ですからホームまで上がれます。

向こう側のホームに寅さん?と思わすような姿も見えてほっこりさせられました。

 

尚、先般永源寺門前について記しましたがその道は伊勢桑名方面への鈴鹿超えの街道となります。

「八風街道」(国道421号)と呼びます。その街道の起点がこちら武佐です。伊勢へのショートカットの重要街道で保内商人が独占していたといいますので近江商人の伊勢から東海地区進出の別ルートだったことが窺えます。

 

地元の人がいうにはその繁盛(近江商人)話は「大昔のこと」。

最近と言ったら名神高速ができて以来殆ど通行する人は居ない「寂れた道路」の時間が続き、それがあの石榑トンネルの開通から最近はことにまた通行量が増えてきたといいます。

 

私は八風街道、鈴鹿越えが好きですね。いなべ市内の通過が時間を喰って面倒ですから桑名とバイパスで繋げてくれればもっと使いやすいのですが。

ちょいと場所はズレますが本能寺の家康の鈴鹿超えを考えるにその苦難を推測できるというものです。

 

⑨「中村屋」は2010年の12月に焼失した料亭旅館。

勿論歴史的建造物でした。看板だけ残っています。

広済寺の御住職がショックで残念と漏らしていたことが思い出されます。

⑩は武佐の郵便局前。こちらの〒ポストは赤ではなくて黒。

歴史的景観を意識してのことだそうです。

やはり赤はダメなのですね。