「おじちゃん かわいそうだね」に色々思う

児童虐待という言葉を聞くようになって久しいですね。

新聞紙上を賑わしています。

それぞれ色々な理由、状況下にあってその悲劇がもたらされるのでしょうが、大抵が親たちの勝手な理屈ばかりのように感じます。

 

要は「子育て」よりももっと「楽しいことがいっぱいあるから」ということを感じます。ネグレクト(放棄)するというきっかけはまずそれ(たくさんの楽しいこと)でしょうね。

「子育てなんてかったるいことはやってられない」というところでしょう。

 

身体的虐待に発展するのもそれらの趣味的悦楽(睡眠も含む)の時間が持てないことへの鬱憤が爆発してのこともあるかもしれません。

 

データ的には虐待相談数は毎年右肩上がりで平成24年度で66700件。平成11年と比して5.5倍とのこと。

直近のデータは知りませんが、おそらく隠れた虐待を含めれば今やかなりの数字になっているような気がします。

 

「子供に恵まれることこそが至上の喜び」(幸せ)であるというイメージはもはや崩壊しつつあるのか、と思いつつある昨今です。

日本人の歴史観と「これからの展望」というものを考えるに、やはり先祖代々とか子孫繁栄を一義に思考したものが浮かびます。

家督であるとか跡継ぎの概念ですが、これは大名家ともなれば子供、それも男子の不在は家の断絶に繋がります。

それともなればいわゆる「ご先祖様に申し訳ない」という気持ちが惹起したものでした。

 

子供に恵まれないというご夫婦の実情もうかがうようになった昨今本当に切なくどうにもならない世風にもどかしさを感じるばかりです。子供が欲しいと思う家庭に子供が授からず、「不要な家」には授けられるという現状も歯がゆいですね。

 

ちゃらんぽらんで無趣味の私ですがそういうご時世の中、多少はぶん殴られて蹴とばされたことはあったにしろ、父母に一人の人間として育てあげられたことはまさに奇特なことだったのだと感じています。

どうこうと不満は各ありましたが、とにかく「今の私がある」ということそれだけで十分に満足することであり、そうすべきなのです。

ましてや不満足な息子でありますが、「何とかいる」ことにも有難さを感じるべきですね。

愚痴などもってのほかのことです。すべてが「今ある」有難いことでした。

 

そういう各種の「有難さ」というものを感じず、要求するのみの「当たり前」精神が優先してしまっているのが今の日本人の姿なのかも知れません。溢れかえったモノと常に「ゲットしたい」という飽くなき欲求が社会の退廃ムードに一役買っていることは間違いないでしょう。

 

せんだって近くの公園を歩いていると「おじちゃ~ん」と駆け寄ってくる女子がおりました。

一瞬「おじちゃ~んとは失礼千万」と振り向けばご近所の女子(小学校2年生)でした。

 

これも聞いた話ですが、「今子供に声をかけてはいけない」というルールがあるそうです。

それは挨拶はじめ子供に対する声かけは「変質者もどき」であるからだとのことです。

それはそれはおかしな社会であることは重々承知ですが、私はそんなことはお構いないですね。目と目があったら「こんにちは」くらいの挨拶は人として最小限のコミュニケーションですね。それを「ナシにしてくれ」というのはどうかしているのです。

 

ということでその前にお寺の駐車場で「こんにちは」を交わした女の子であることがわかりました。

そんなご時世に逆に声を掛けてきてくれたことに嬉しさを覚えました。

 

画像は不細工な私の顔と彼女のプライバシーの件ありますので細工をいたしました。

以前もブログにて公園には男の子の姿は見られなくなって女の子ばかりと記しましたが、そんな中、女子は非常に活発です。きっと男子は端末ゲームで温かい家の中でピコピコやっているのでしょう。

 

彼女の今の自慢は「ブレイブボード」とのことで、それに乗る雄姿も披露してくれました。私はそういった流行りものがあるのも知らず驚いた次第ですが、もっと感動したのは、それは昨年のクリスマスで「サンタさんにもらった」と胸を張って宣言していたこと。

「欲しい欲しい」と言っていたら「願いがかなった」と淡々と話しておりました。戸惑いも迷いもない信念というものが伝わってきたのです。

 

その語によって彼女自身がその家族の宝物であることがわかりましたし、一瞬どぎまぎさせられた私はつい、「スゴイ !!」とつぶやきました。

その程度のボキャブラリーしか思い浮かばなかったのですが、その言葉に反応した彼女は「おじさんは去年何をもらったの?」と。

質問責めとなってもはや夢もへったくりもなくなって、「プレゼントなんてもらってないよぉ これまで1度も・・・」と正直に言えば表記の

「おじさん かわいそうだね」という言葉が返ってきたのでした。

同情してくれてありがとう。

それにしても「同格かよ」とも思いましたが・・・

偉そうに自動車に気を付けろ、道路でやるな、気を付けて帰れなどと説教染みたことを伝えて別れました。

 

彼女に「うちのネコと同じ名前だ」というとプリプリしていました。画像の白猫は公園でエサ待ちをしているところ。

スポンサーがいるのでしょう。これからの季節は彼にとっても試練です。

 

最後の画像は「皇帝ダリア」。

この辺りで最近流行り出した品種でそこここで見かけるようになりました。

背が高く、11月中旬にピンクの花をつけます。

 

私はツナギか画像の如くadidasづくめのスタイルがお洒落となります。

彼女が撮ってくれました。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 29 11月 2016 09:03)

    あれあれ この猫はここ2~3日は見ませんが、いままで朝5時に公園にいくといましたよ。
    一日中いるのでしょうかねー。
    まだ暗いので猫の目を懐中電気で照らして遊びます。
    最初は目を開けたり閉じたりしたのですがこの頃はしっかりと目を閉じて
    遊んでくれません。知らんぷりです。
    空き缶があってエサが入っていることもありました。
    水はトイレに行って飲むようです。
    これから寒くなるとどうするんでしょうか。少しだけ気になります。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 29 11月 2016)

    ありがとうございます。
    あそこは彼のねぐらでしょうね。
    彼はえさやりのバックアップがありますので外とはいえ気楽な人生を
    送っているのでしょう。夜はトイレの中で過ごしていそう。
    それにしても「朝5時」とはかなり冷えるでしょう。
    習慣になられているとはいえ継続力に脱帽します。