芦浦観音寺  安国寺由来宝篋印塔と石塔に書院

遠乗りの行動日を単独の祭日か土日かで迷ったらやはり土日の方は避けたいところですね。

ほとんどの人々の行動はつまるところ「土日」に集約するということが今更ながらわかりました。

それは昨日土曜の朝に伝える高速道路情報にて知ったのですが、7時で伊勢道が二けたの渋滞(17㎞)と報じられていました。

 

この伊勢道の渋滞情報は一つのバロメーター。

ここが混むということはその分岐して進む京滋方面や名古屋を回り込む名神高速(一宮あたり)が混みまくるというこれまでの経験則です。

まぁこの土日は今シーズンの紅葉狩最後、だとか日曜は雨の予報が出たため、この土曜に人が集まってたのでしょう。

 

ということで23日祝日の芦浦観音寺詣でのついでに紅葉を愛でるという企画は悪くなかったかも知れません。京都まで足を延ばすという冒険を躊躇して正解でした。

私はかつて「紅葉狩り」などいう風雅のためだけにこの時節野山を散策するということはありませんでしたが近江に限っては別です。何か新しい出遭いがあるかもしれませんので。

 

湖東で紅葉といえば「湖東三山」(百濟寺・松尾寺<金剛輪寺>・西明寺)が定番となりますが、いずれも人気名勝の地でいかなる混雑になるか未知の世界でした。

草津方面から名神を北上しながらの帰路に立ち寄るのはまずは百済寺ですが、あまりにも「紅葉がキレイ」で通ったお寺ですから以前の平日に行った際の「すべて独り占めの景」は絶対に無理とはわかっていてもやはり「こわいもの見たさ」の気持ちもありました。

 

ある方に「人混みほど腹が立つものはない」とぼそっと言った時「天に唾するような暴言」とご指摘を受けましたが他人様から見れば私もその「人混み」の構成員なのでしたね。

反省しました。ただし私は普段より誰もいない山道に慣れていますので真宗的ではありませんができるだけ「日を選ぶ」ようにしたいものです。

 

今回は芦浦観音寺の抱き合わせの思い付き強行ツアーでしたから致し方ないですね。

芦浦観音寺について昨日記しましたが阿弥陀堂だけでなく見どころは他にも多くあります。こちらの歴史概略は受付で配布されていましたので、こちらに貼り付けておきます。

帰宅して見ればその日に行った場所で一番空いていたと感じました。「特別公開」と言っても喜んでそちらに向かう人は限定的なのですね。特に開門前に静岡からこちらをピンポイントで目指したりするなどは特異なケースなのかもしれません。

 

こちらの歴代肖像画が本堂に掛けられていましたが(撮影禁止とのことでした)秀吉時代の九代目「詮舜」という人は天台宗総本山の比叡にとっての功績は重大で、信長に焼き払われた比叡山の復興を秀吉に働きかけて実現させています。

その功に関しては延暦寺瑠璃堂の舜公碑銘に刻まれているとのこと。

その後の朝鮮出兵の際に名護屋まで出向いて陣中に入ったり、伏見城普請のために竹木の調達に走ったともいいます。

 

昨日の阿弥陀さんの件もありますが、もしこの芦浦観音堂由縁の史料掲載の図録などが販売されていれば私は購入したでしょうね。また別の委託管理博物館があればそちらについても掲示すべきですね。

「撮影禁止」とするならば資料集くらいの公開をしないと「本来の親切な公開」にはならないでしょう。ボランティアさんの口頭説明だけでは「右から左」になってしまいます。

今後の課題としていただきたいと思います。

 

阿弥陀堂に続いて目前にある重要文化財としては「書院」があります。阿弥陀堂が京都の普勧寺からの移築とありましたがこの書院も永原城(野洲市)から移築(江戸時代)されたものだそうで、中に上がることができますが、什物各品物は周辺美術館に分散されているとのこと。

 

実物として目に触れられるものは動かせないものに限定というワケですね。それは盗難被害を防ぐという意味が大半の様。

管理者が通常時不在ということにあっては致し方ないことでしょうね。

 

さて、昨日は一番最初に阿弥陀堂に向かったようなことを記しましたが、実は私が門を通過してスグ、目を釘付けにさせたものは宝篋印塔です。

こちらも重要文化財指定ということですが、さすがにこちらは「盗まれない動かせない」もののように感じます。ところがこの石塔は一回盗難に遭っているとのこと。

 

実はこの寺の近隣に安国寺があって本来はそちらに建っていた石塔で、盗難されたのち発見、その後はこちらの門の中に納まっているということのようです。

時代的には室町初期でしょうか。

「安国寺の址」は日本各地にありますね。勿論現存する寺も。字面からの通り、「国 安らかに」で、方広寺の例の銘と同様の思想でしょう。

 

この安国寺に関して世界大百科事典の文言を貼りつけると・・・

 

「足利尊氏・直義兄弟は、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の霊をとむらい平和を祈願するため、1338年(延元3∥暦応1)ころから貞和年間(1345‐50)の約10年ほどの間に全国66ヵ国2島に1寺1塔を設け、各塔婆には朝廷から賜った仏舎利2粒を納めた。

ついで、1345年(興国6∥貞和1)2月6日の光厳上皇の院宣によって、安国寺・利生(りしよう)塔と名付けられた。このうち利生塔は、真言・天台など旧仏教の大寺に設ける方針であったが、山城・相模・駿河などでは五山派の禅寺に設けられた。」

 

とあります。こちらの宝篋印塔の建造時代もその辺りの時間経過を十分に感じさせるものでした①~④。

⑥~⑨の石塔はパーツ取りですね。アンバランスです。

しかし四方に彫られた仏たちとバックの古びた築地塀のマッチングがイイ感じですね。

⑩の奥が書院になります。

⑭は茶道用でしょう、押入れに設えられた炉。

⑦~は書院周辺の土塁の状況。