河内若江は「戦国」の始めと終わり  美女堂家

この季節の変わり目に体調を崩す年配者が多いように感じます。若くて溌溂、健康満足の身である人はそんな自然界の微妙な変化に体が悲鳴をあげていることなどに気が付くことはありませんが、体内深部の経年劣化は確実に進んでいて、ちょうど80代にかかったあたりに「何か」の変化があるような気がしてなりません。

 

最近ほとんど毎日のように飛び込んでくる高齢者の車両関係の事故の件もそうですね。

高齢者から車を奪うことはできませんが、他者の命を奪うことに繋がる今の状況を放置することはできないでしょう。

 

私の周囲でもその件でお悩みになっている家族がありますので全くもって他人事ではありません。

聞くところによるとその方は数か月のうち3度も事故を起こして息子さんに免許証を取りあげられてしまったのですが、「不便でならない」と私にその辛さと愚痴をぶつけてきます。

 

私は「私が息子だったら同じことをします」と厳しい事を言わざるを得ませんでした。他者を怪我させなくて、また自身も怪我がなくて何より・・・ということも付け加えて。

 

また、「では、自分自身はいかに・・・」というところもテーマになりますが、自分で「私自身のリスク」について認識できるものか不安でもあります。

要は「何時、免許証を返上するか」ですが、私も「その時」息子に向かって皆さんが言っているのと同様「自分は大丈夫 !!」という常套句を吐くのでしょうか・・・。

覚悟を決めておかなくてはなりませんね。

勿論「無常」にです。

 

さて、「河内若江」について記していますが本日は木村重成を離れて若江城、若江小学校向かいの公民館の前に戻ります。

今一つ立つ石碑について・・・。

 

そもそも戦国時代の始めを応仁文明の乱とすればその乱の導火線に火をつけたのは彼の地の畠山家中の騒動であることは先日記しました。

そして戦国時代の終焉ともいえる豊臣家滅亡の夏の陣の主たる現場がこの辺りです。

いわば「戦国の最初と最後」と言うことができるかも知れません。そういった因縁の場所だったのです。

 

その地に古来から住む一族に「美女堂家」という珍し気な名を持つ家があったといいます。

その氏に関する石標がそれですね。若江城で記した最後の地図画像に「美女堂川」の地名が見えますがそういった名称に人の名が記されるということから古い家であることがわかります。

 

美女堂家は掛川藩・浜松藩と遠州お馴染みの太田家から太田資次が1678~1684年の間、大坂城代として(のちに摂・河と下総へ移封)その後当家からは資晴が1734年~40年、資始が1828年~31年の計3名が入っています。

 

その太田資次の時に没落して帰農していたという美女堂の孫六改め沢右衛門という人が仕官し、この若江を治めるようになったといいます。

 

この石碑は平成三年にこの地に移転されたとのことですが、それまでは杉山という個人宅にあったとのことです。

そのあたりの事情は「杉山三記雄」氏がHP<美女堂氏遺愛碣>そして若江の地について詳しく記していますのでそちらを訪問していただければと思います。

 

私としては若江という地で遠州掛川の名を見たことに感動をおぼえたところでした。その際は掛川に「美人ケ谷」(石ケ谷)という珍しい場所がありますので、美女繋がりで何らかの関係があるかと思ったところでした。

 

天保二年歳  辛卯にあたる夏四月(1831) 

掛川 十束 達 この文を作る

同   美女堂勝喜 これを建つ

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コメント: 2
  • #1

    杉山三記雄 (木曜日, 13 7月 2017 12:54)

    失礼します。美女堂遺愛石碑を執筆の杉山三記雄です。
    ご紹介いただきましてありがとうございます。お礼申します。杉山三記雄

  • #2

    今井一光 (木曜日, 13 7月 2017 13:37)

    ありがとうございます。
    こちらこそ資料を拝借させていただきました。
    今後ともどうぞよろしくお願いいたします。