どうぞ このまま そのまま ありのまま  やすき心

一夜明けて山陰の地震の惨状が明らかになり、心痛む中、私どもが味わった彼の地と同じ「震度6弱」の苦痛を思い起こしました。当時「もうこれ以上の揺れは勘弁してもらいたい」と心より思ったものでした。

しかしあの時本堂の大棟が崩れてその改修に檀家さん皆さんの協力を得て「今がある」のですが、つくづく「6弱」でよかったと思ったものです。

今後またそれ以上の酷い目に遭うことも十分に考えられますが、もしあの時「6強」以上だとしたら・・・また違う人生を歩んでいたかもと深く思います。

 

「6弱」ならば必需品は「ブルーシート」ととりあえずの「電気と水」ですが、もし「6強以上」だとしたら・・・「熊本」「阪神・淡路」や「東北大平洋」を襲った震度となって、そうなれば「助かるか助からないか」にそのステップが上がってしまいますからね。それにしても地震の頻度が高いような気がします。

天地の気まぐれは人間のはからいなどにかまってくれませんが、私たちはただ今を生かされている私やその周囲のかかわり、その存在そのものに幸せを感じることが見いだせられれば、そのような仇と感じる自然の猛威の受け取り方としてはアリなのかも知れません。

 

さて、私の法事のスタンス。

正信偈に関しては「御一緒に・・・」と唱和を進めますがそちらとセットの「お経」(浄土三部経・・・拙寺は「阿弥陀経 小経」が主です。リクエストで「観経」はありましたが「大経」はかつてしたことがありません)の時間の過ごし方については焼香と「メディテーション」(「今の私」を呼吸で感じること)を勧めたいところです。

よって最近は本堂主体(ご自宅仏間での法要は除く)の法要ではお内陣以外の照明はオフにします。

特に南側の雨戸の半分以上は閉めたままにしていますのでかなりの薄暗さとなります。

 

「寝ちゃうよ!!」ともよく言われますが、それも全然OKですね。

経典読誦中に「安眠」=「安心」が提供できるとすればそれこそ坊さん冥利に尽きるというところ。

 

当流は以前ディズニー映画にかこつけて「ありのまま」の宗派であるようなことをブログにて記しましたが、それについて追記させていただきます。

 

私は回忌法要のうち七回忌以上の法要の最後に拝読する「お文さま」に関しては今「二帖七」の拝読が主になっています。

少々長めですが、私はその中の文言の中の「やすきこころ」の部分が特にお気に入りだからです。

一言で言えば「安心」なのですが、その語はとてもやさしい言葉で、もしやすれば「安直で安っぽい」と誤解されてしまいがちですね。

 

しかしその「やすきこころ」=「安心」こそ、深堀りしてみれば、「人生それに尽きる」ということが言えるでしょう。

 

 

画像①「二帖七」は長いので抜き書き転記しますが「安心」連発の部分です。全文に興味がある方は「お文 二帖七」で御検索を。

 

『あら やうもいらぬとりやすの安心や されば安心といふ二字をば「やすきこころ」とよめるはこのこころなり

さらになにの造作もなく

一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて

極楽に往生すべし あら、こころえやすの安心や 

また あら 往きやすの浄土や これによりて大経には「易往而無人」とこれを説かれたり・・・・・・』

 

それだけ「安心」な場所に往けるハズなのにショッキングにも「いきやすくもひとなし」(易往無人)と断じられてしまうところがこのお文のミソですね。

心からのお念仏・・・南無阿弥陀仏―「如来におまかせ」・・・それが表記の羅列ですが、転じて「今そのまま(居)」に幸福を得ることだと思います。

私の「イマイ」はいよいよ「井」というよりも「いま(ここに)いる」という讃嘆の名であると思うようになりました。

これはミソはミソでも手前みそ。

 

表記のうち「どうぞ このまま」は丸山圭子のボサノバ調の曲。

先般檀家さんの車に便乗した際、聞こえてきました。

懐かしく「誰でしたっけ?」と聞いてしまいました。

タイトルも歌詞の深読みからも「真宗っぽさ」をこじつけたくなりました。

 

画像②は烏丸通の押小路角の気になる店。

いつかは入ってみたいですね。

今決めました、次の京都はこちらを目指すことにします。