「現銀」とは「銀行」の「銀」と同   現銀なヤツ

昨日は正信偈3回、阿弥陀経1回、願生偈1回、三誓偈2回+和讃+御文4本+念仏とおしゃべり・・・で振り返ってみれば1日中声を出していたような感じです。

 

おしゃべりの中でいつもの私のボヤキ、「歳を重ねて・・・どうこう・・」の自虐を話しますと、「じゃあ私はどうなるの?」というご指摘。そういえば私が最年少でした。失礼いたしました。

 

また、「田沼=賄賂」の感覚はどうしても「違和感があると」投げかけられました。

この「賄賂」という語はその悪辣感を強く前面に押し出して田沼意次の足を引っ張ろうとした「キャンペーン」の主催者「松平定信」の策略であってそれこそ「贈り物」(プレゼント)は日本人の文化であり、風習だったのだ・・・と私の意見を。

 

芽が出なかった頃の「松平定信」が意次にその手の「ギフト」を送っていたことは有名な逸話ですね。

個人的な意次への恨みつらみが爆発したというかその「賄賂」という言葉であってそれを真に受けてしまっては歴史を見誤ります。

 

秀頼の大坂方が関ケ原西軍方武家・浪人やら対江戸不満分子たちを大坂場内に引き入れるにあたって秀吉からの膨大な資金をバラまき、「勝ったら〇〇します」などの安堵状誓約書の類を乱発していたことは明らかですが、懐柔工作に江戸(家康)もその手の画策はしています。

 

それが今も日本人的で政界でも伝統的と言われる「裏工作」ですね。または「根回し」とも言います。

政治家と公務員がその世界にズッポリと足が浸かることはいいことではないのですが、庶民の中で素朴な感謝を品物で表現することはまったくもって日本の文化であることは疑いのないところです。中元に歳暮、各祝い等あげていればキリがありません。

 

それら品物、時として現金をもらった相手の態度がコロっと変わって渡した人の意思に沿った方向に物事が進んだとすれば、それを「円滑にものが運んだ」などと言ったりしました(公務員、政治家がやったらアウトですが・・・)。

 

そして、後世になって好条件を提示されて硬化していた態度が軟化し180°方向が変わったりするとその人を「ゲンキンな奴」と言ったりします。

そうですね「人を動かすにはゲンキンが要る」という思想が「オリンピック」という一大イベントを見ていて「なるほどな」とぼちぼちわかってきたところです。

談合あり裏工作あり・・・なんでもあり・・・もはや辟易としてきます。

 

表記は三井高利(越後屋)の「現銀掛値なし」から。

「現銀」とは庶民に普及している「銀」製貨幣のこと。

「武家より庶民」にアピールしていることもわかります。

幕末に「金」「銀」交換比率の違いによって外国からボロ儲けされてしまったことは別にして、どうしても通貨の普及率という観点からすれば「おカネ」といえば「銀」だったのです。

今の「銀行」という呼び名はそこからですね。

 

ちなみにそこを越後谷さんは庶民に向かって「掛値」というものをなくしてキャッシュオンリーで切り売りOKとしたのがその言葉。「小売り」の原点かも知れません。

いわばこれまで通例の武家との商取引は盆と暮れが締めの「信用」であり当然に大量ロットと手数料が伴います。

それを廃したのが「掛値なし」のフレーズだったわけでよりよい品物の「庶民化」商取引にシフトチェンジしていった頃の事です。

またその語は「ウソ偽りがない」という意の語になっていきます。

 

ここに今、日銀さんが悩むデフレの原点があったわけで・・・

庶民というものは「公」の役人が考えている以上に利口です。

一旦安くてイイものに出会えば、品物さえそこそこであれば安価なものに走るのは当然のことです。

「現金」・・いや「現銀な庶民」は何かプレミアムが無ければ心も身も動きませんね。

ウソと偽りだらけの世の中では・・・とも感じることがたくさんありますし。

 

表記は先日記した「日本城郭大系11京都・滋賀・福井」です。

この大系の中で、人気のあるものと無いものに分かれるのは当然のこと。

一番人気で希少価値というかあまり出回っていないのが「8長野・山梨編」と聞きます。やはり私もその地に興味がありますので手に入れたいとは思うのですが・・・

そしてそれと同等の人気があるのが「11京都・滋賀・福井」だそうです。

 

ということで②。私にはその中古品価格のバラつきの意味は解りませんが驚くような金額が提示されているものもあります。

これも人気化して「プレミアムが付いた」といいますね。

手が出ませんね。それでも欲しい人は欲しいのですが。