信長の比叡山以上 秀吉の天敵 根来寺・・ 智積院

どうやら秋の長雨らしき、じめじめ感は終了したようですね。

同時に朝晩は半袖ではうすら寒さを感じ、昨日あたりから引っ剥がすことはわかっているものの一応は毛布を用意しました。

ただし昼間に体を動かせばまだまだ「暑い」とつい言ってしまいます。

 

週明けにいつもの花ガラを処理場に持ち込みました。

私は最低でも週一、何か作業に取り掛かれば1日3回などと頻繁にお世話になる場所です。

まるでこの10年、「業者」の如くゴミの搬入に行くものですから最初の内はその件について繰り返し問われたものでした。

それは個人と業者では搬入料金に差があるからです(たしか3倍)。

 

大量の樹木を軽トラ一杯積んで、日に2~3回も行けば訝しく思うのは当然でしょう。①全部私が切ったもの②私の家から出たものは嘘ではありませんのでその主張のみしていましたが、しばらくしてから「どこの誰だか」は殆どの作業員が知るようになっていました。

 

先日のこと。ゴミを搬入して空の荷重を測るために料金所に向かいますが、鉄板(計量器)の上にトラックを置いたまま妙にいきり立って怒鳴りまくる声がありました。

助手席の相方と「何をやってるんだか・・・」とニヤニヤ傍観していれば、守衛の小屋前にも2人集まってその状況をやはりニヤニヤして窺っていました。

 

こういう状況はよくないですね。

その手の空間に後ろで坊さんがニヤけているのは・・・

私の後ろにも車が並んだところで「行ってみようか」と助手席に向かって問えば「絶対に行くなよ!!」と。

 

この言葉は実をいうと私にGOのスイッチが入いってしまいます。以前富士の樹海の道路わきに倒れた人を見て助手席からそのように言われましたが結局は車を停めて話を聞きに行ったものです。

まるでコントのようですが人間とは真摯な忠告に対してつい逆の行動に動くことがあるのです。

 

しかし、昔から「駆け込み寺」と言われるように庶民救済の場を提供するのが坊さんの役目です。

外に出ていたからといって傍観を決め込むワケにはいきませんね。助手席の相方はこの状況「怒りに火を注ぐ」可能性があることを危惧したのでしょうが、その私の性質は既に大分解消されているのかと思っています。歳をとったということでしょう。

 

かつて地震で崩れた寺の瓦処理の件で牧之原市の支援に期限があったことについて役場でデカい声で不満をぶつけたことがありましたが、そのような「はしたなさ」は一昔前の私。

 

ということでその「絶対にいくなよ!」の言を背中にして、お怒りになっている方の脇に。

台詞はこういう時の常套句「お取込み中のようですが・・・」とニッコリ声をかけました。するとその方は「はっと我に返った」という感じで私には「笑顔」で「ごめんごめん」と。

何事もなく停滞を解消することができました。

 

「怒り」の発散を目にすると萎縮したり、第三者的になって「やれやれ」2種(扇動と吐息)とばかりに「笑って傍観」するのはいけないことですね。

声を掛けることによって「気づき」が生まれるのです。

くれぐれも付け加えますがこれは初対面の人ですから頭ごなしに「何やってんだ」というのはタブーでしょうね。

「ニッコリ」必携でチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

あとのことは関知できませんが・・・

 

さて、方広寺周辺についての続き。

七条通を左に「京都国立」、右に「三十三間堂前」を通過するとスグ東山七条のT字路にあたります。

その信号の突き当りが智積院(地図下画像①②③場所はここ)。

 

秀吉の「日輪」軌道を見立てた「豊臣」輪廻転生神格化のラインについて記していますが(最初のブログ登場がこちら)、そのブログで「家康の秀吉計画邪魔の算段」を箇条書きしました。

 

その⓹について。 

★秀吉が亡くなった長男の棄丸(鶴松)の菩提を弔うために建立した祥雲寺を廃し秀吉の仇敵根来寺の一院である智積院を・・・

 

と記しました。

「棄て」や「拾い」は昔から長寿に恵まれる縁起のイイ名と言われていました。大切な子だから一旦捨て(勿論フリです)たりまたは拾ったり・・今ではちょっと考えられないような風習でした。

 

その秀吉の思いとは逆に3歳で亡くなった「棄て」の葬儀は臨済宗妙心寺で行われています。

法名が「祥雲院殿玉厳麟公神童」。その後大仏殿の背後の東山の麓に彼の法名から臨済宗の祥雲寺を建てたのでした。

家康はその祥雲寺をわざわざ廃寺として根来寺(智積院の寺号)を持ってきたというところからその「家康の徹底ぶり」が伝わってきます。

 

信長に続く秀吉による宗教界の弾圧は比叡山(天台)焼き討ちと対石山本願寺(真宗)戦ばかりが目につきますが、実をいうと本願寺が開城し顕如さんが紀伊鷺森に撤収後、特に信長が本能寺で討たれたあとは和歌山籠城組で地場筆頭というべき鈴木孫一らは鉄砲衆を率いて秀吉方に従軍していたようで、浄土真宗は表向きは従順態勢です。

 

まとめ役の不在となった雑賀衆は本来は仲の悪かった根来衆とそれでも共闘路線を組んで秀吉に抗います。

そもそも根来寺は真言宗の流れで多数の僧兵と雑賀衆と同様の鉄砲傭兵集団でもありましたし、真言系の寺社の領分主張(旧来既得権)の最先鋒の集団でした。

雑賀衆とともにいち早く鉄砲の価値を見出して最新式の武装を遂げ、あるいはそれを商売の道具として全国に広めていったグループだったと思います。

 

当時の家康の画策は当然にありますが、根来衆は岸和田城の中村一氏、小牧長久手戦では秀吉の背後を衝くべく大坂城を攻めています。

当然に一向衆の「石山崩れ」も入っていたでしょうが、その当時は既に顕如は戦線離脱を表明していますね。

 

ということで最後まで秀吉に抵抗し続けていたのが根来寺を筆頭とした根来衆でした。おそらく秀吉はこの「根来寺」に関して地団太を踏むほどの「怒り心頭」の気持ちがあったと思います。

天正十三年には念願かなってこの根来寺を焼き払っています

(紀州征伐)。この辺りから秀吉の絶頂期に向かっていきます。

 

秀吉の来襲に根来寺から高野山に避難していた僧玄宥はその再興を家康に打診し、関ケ原以降に現在の智積院の地をあてがわれたのでした。

秀吉が天下統一前、最後まで抵抗し相当に怒って、抹消を計った寺を逆に秀吉の亡き長男の菩提を弔うべく建立した寺を抹消して上書きしたというところがその徹底振りの締めくくりでした。

 

見ものの多いお寺ですが、特に長谷川等伯らの障壁画は祥雲寺にあったといいます。

一番上の地図を見ていただければ一目瞭然、寺地の大きさときたら・・・。

背後の墓域へ回りました。遠くに京都タワーが見えます。

こちらでも墓地の整備に頭を悩ましているようですね。

無縁さんの五輪塔や石仏にプレートが装着されていましたが、どこかに行ってしまうのでしょうか。

真宗系の法名も見受けられました。

 

下記は昨日、檀家さんからの差し入れです。

例の「きょうの料理」の二日目で取り上げられた「さば天のおにぎり」。

「4個御試食」ということで、いただきましたが1個ずつ我慢できずについ銜えてしまいました。

カンタンそうですが、手間がかかっていますね。

いでたちは海苔を着物に見立てた人形のようです。

御馳走様でした。