つまるところ「骨を拾う人がいる」ということ

台風一過の快晴をイメージしていましたがアテが外れました。昨日は朝のうちは晴れの気配があって前日の台風避難をしていたハイビスカスの鉢軽トラ1台分を庭に広げる作業から。

午後からは法事が入っていました。

 

法事には地震発生の直前に長い間住んでいた熊本を引き払って東京に移った方と長野の上田から来た方が。

台風通過のおかげで多少の交通の乱れがあって午後でも開始時間を遅らせて1500からに。

 

墓参から小雨交じりになっていました。

上田からの方はお城の近くだそうですが、今俄かに城を訪れる人が増えまくり、地元の人は城周辺を敬遠するようになったと仰っていました。

熊本の方からは知り合いの酒屋がようやく商売ができるようになったので・・・ということで名産の焼酎を戴きました。

勿論私が酒を嗜まないことは承知のうえで、「親戚にあげてくだされ」と。

 

また、連休で3つのごみ袋が満杯になりつつあり処理場に行くために墓参の檀家さんたちの中で雑談をしながら支度をしていると・・・相良の某家本家から出た分家筋の方が。西遠江、天竜川手前辺りに在住ですが「オレ、そろそろヤバそうだからその辺りの門徒の寺を紹介してくれ(大澤寺は遠すぎ)・・・・」と。

 

生憎とその辺りの寺事情に関して全くの無知である私はその旨伝えると「実は数軒の寺にめぼしを付けている」とのこと。

躊躇していることといえばやはり諸経費の発生、要はコストの件。何しろ相良は遠いので近所の「寺がイイ」そうです。

 

どうやら奥さんが3人姉妹の長女らしくそちらの方の墓も見なくてはならなくなったようで、先日その菩提寺に永代供養の金額を聞いてみると「四百万円」と告げられて仰天させられたとのこと。

私もその辺りの件は全くの無知で「そんなもんか・・・」と一緒に驚いてた次第です。

 

それでいてその方の新仏の墓を遠方で生活していて帰ってくるのかもわからない(いや帰って来いとは言えない・・・)息子さんや親族に見させることを前提とした墓というものが果たして必要なのか切実に悩んでいるとのこと。

 

私のお応えした内容は・・・ちょっとエグイ話ですが・・・

①おカネの問題は寺の維持に不可避ではありましょうが、高額の

 ものは昔ながらの寺の権威を振りかざすようでこのデフレ社

 会においてその高額ブリについては少々異常。ただし「それ

 は凄いですね・・・」としか言いようが・・・。

 ただしその調子で「寺のみインフレ」をこぞってやっていた

 ことが今の仏教システムの崩壊に繋がったのかも・・・

②カネの問題もそうですが、寺との付き合いは「住職」との付き 

 合いが主となりますので、ひょっとして「反りが合わない」な 

 どということもあるかも知れません。

 意外に長い付き合いになるやも知れずそこのところが一番の

 課題です。

③ということで「あいみつ」をとりながら住職と話すが基本。

 ブッチヤケ話でいいからどんどんその手の話をしてみるのも

 一手と。仏道者が「法」(仏法です)の価値(寺の選択)を「あい

 みつ」で差別化しろというのはコスト限定の極論のように思

 いますが、その手の話をする中で住職の人柄というか、きっと 

 本音の部分が出て来ると。

④ここのところまで触れませんでしたが新たに寺に入るに

 「新規入檀料」なるものを設定しているお寺もあります。

 年間でどれくらいのイベントがあってコストがかかるかも検

 討項目ですね。

 

話す事、聞く事によって何かが開けてくると思います・・・なんでもそうなのです。

じゃああなたの寺の永代供養は・・・?入檀料は・・・?となるでしょうがやはり自坊の事は棚に上げたいですね・・・。

まさか、相良というド田舎の有髪の生臭坊主の寺の話を聞きたいという奇特な方はメールでも電話でも気軽にどうぞ。

ちなみに永代供養は合葬墓と墓地がありますが、同じようなもの。先に掲げた金額と比較すれば1/15以下でしょうか。

合葬墓は土地と墓石を用意しなくて済みますからラクですね。拙寺入檀料は檀家さん関係者、分家は無量。新規でも微々です。これは一応決まりがありますから。

 

しかしこちらは寺です。

救いが無くては存在意義ありませんね。

決まっていたとしても色々話されることによって解消できる部分があるものです。

 

拙寺の場合は「真宗でなくてはならない」という強い親鸞門徒の少ない地域性にあるということと、お隣の真宗寺院が「近くにはない」ということから競争原理と切磋琢磨の研鑽という意識が芽生えず、「出て行くばかりで帰ってこない」人口右肩下がりの土地ですので特に私などは「のほほ~ん」としているばかりです。

騒いでも仕方ないことで、これも「如来におまかせ」ですね。

一番に幸いなことは私の骨を拾う人がいて、骨を仕舞う場所があるということでしょうか。

 

3万円で海洋散骨する業者さんを知っていますのでそちらの存在も触れておきましたが、「骨を拾う人」「骨を仕舞う場所」が無いことは辛いと思います。

年に数回でもいいのです。

花を添え、線香の煙の中で手を合わせる機会をいただくだけでいいのです。

参拝の対象が海というのもあまりにも漠然としていて「ちょっとやりすぎたかも・・・」という海洋散骨者の後悔の言葉を聞いた事がありました。

殆ど遺骨を「捨てる」意識のようでもあります。

 

家族関係の希薄は超高齢者社会になるほど多くなっていてそれは「遺骨無用の0葬―ゼロ葬」に向かう傾向があるようです。

この日本、すべてにおいて「疲弊している」感。日々見せつけていますね。

昨日お会いしたみなさんの8割方がその手の悩み(墓が無い、資金がない、後継者がいない、墓じまいをしたい)をお持ちのようでした。

もはやここに「信仰はない」と思うのは高慢な僧侶なのかも。

坊主たるものみなさんの現実の厳しさを共有しなくては。

 

画像石仏は近江石塔寺。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 22 9月 2016 16:38)

    坊主の会合へ行くと外車のオンパレードとか。
    世の中 医は算術的な方が多いのも事実。
    オウムと比べればそちらへ行くのもわかります。
    仏教家がどこまで反省したのやら。のど元過ぎれば熱さを忘れ。

    宗教家が稼ぐでなければ回りで生活の面倒を見るため
    ある程度の布施は承知すべき。
    檀家がお寺を維持しなければ誰がする。
    これは私の考え。

    それでも仏教家、宗教家はオウム事件を反省すべきだと思います。
    人々の拠り所が宗教家ではないのかな。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 22 9月 2016 21:51)

    ありがとうございます。
    今の仏教界の様はすべて自分たちの蒔いた種ですね。
    長い微温湯期間、江戸幕府の檀家制度の保護下の安楽にいてイキナリ明治維新によって
    廃仏毀釈という冷や水、敗戦の農地改革による寺院所有地没収という経済基盤の衰微は
    各檀家さんによって補完されてきた歴史でもありました。
    にも拘わらず、顧みて反省することもなく寺という旧態依然の権威らしきものに胡坐をかきつづけてきた経緯もありました。
    まだまだ甘っちょろいことを言っていますが、檀家さんの声に耳を傾けて「臨機」を旨に
    動いていければと思っています。