古き沖縄と静岡の関係  清見寺 具志頭朝盛の墓

ブラジル在住の叔父が来日したという報せがありました。

浜松の従妹の家に滞在しているそうです。

時差ぼけでフラフラになっている中、吉祥寺の叔父にかけた電話の第一声をまた聞きましたが「なるほど」です。

 

私の思った通り「日本のリスク」は世界に轟いているようです。地震・津波・台風・洪水・土石流・火山・・・の被災を外から見て、あらためて「自然」の恐怖を知ったそうです。

そこで「ブラジルの自然は人に対して害を及ぼさない、人に害を及ぼすのは人だけだ」の論でした。

 

昨日は民放系の三面記事報道で例の破廉恥芸人の釈放(相手が合意していたという解釈でよろしい?不思議・・・)の際の言葉をチラっと見ましたが、まるで甲子園。

高校野球の「選手宣誓」の如くでした。「若さ、溌剌、正義、潔さ、勇ましさ」を表現する趣旨の場では教科書通りでよろしいとは思いますが、強烈な違和感。アレに演出(シナリオ)があったとしたら「差し違い」ですね。

それとももしやオリジナルでしたら「誰か教えてやれよ」と思ったのは私だけでしょうか?

有名人だったということだけでクローズアップされたようですが、そもそもこの国にあっても「人が人に害を及ぼす」件などはまたぞろでした。枚挙にいとまがありません。

 

自然が人間に優しいというのは素晴らしいことですが、日本には日本のその厳しさへの対応が古くからあったわけで、今のように「異常気象」という言葉のみで片づけてしまうことはありませんでした。今の東北北海道の水難については目を覆うばかりで痛切です。何とか国レベルの支援の手を早く入れてほしいと望みます。

 

異常気象と洪水、土石流の件。

津波への対応については「此処より下に家を作るな」風の教訓が伝わっているように、昔は「洪水がある場所(河川の近く低地)には家を作るな」という掟のようなものはあったようですね。

吉祥寺の叔父が言っていましたが古くから多摩川辺りでは「5年に一度」の洪水があったそう。「川は溢れる」が鉄則ですから川の近くに「家は建てない、住まない」が当然となっていたのですね。

今の住宅事情で「そうは言われても・・・」とお叱りを受けましょうがこちらのブログはあくまでも「歴史」を記していますので。

 

よって、何より洪水で田畑の損害はあったとしても人命が失われる事は無かったといいます。

そしてむしろ洪水があれば人々は「喜んだ」とも。

洪水は枯れかけた大地を肥沃な土地に一瞬に変えてくれますからね。自然の恩恵として洪水を受けいれて喜ぶのはそれが次節の豊作を約束してくれるからでした。

 

長い堤防を敷設し高度な治水技術を自負したとしても結局はあのような自然の気まぐれに人々は対抗できないのです。

逆にその「高度な技術」は人々の過信と慢心を惹起させ、致命的油断へと繋げてしまったのが現代の河川事情なのかと思った次第です。

地元でも津波防御壁の延伸工事が進みつつありますが、浜岡原発のそれと同様、「信じるな」は一理あるのです。

 

さて、久々に朝から晴れた昨日は3~4時間ほど本堂北側の伐採作業を総出で。ずっとサボっていたためジャングル化していたので踏ん切りをつけましたがやりたかったところの1/3で御終いにしました。

理由は蚊の襲来とコンディション劣悪による疲労度のペースが限界を超えたためです。

家族の「繁茂が収まって涼しくなってから・・・」という意見に従いました。

 

シャワーを浴びてテレビの地元民放系を点ければ標記、具志頭朝盛(ぐしちゃん ちょうせい)の法要が清見寺で執り行われたというニュースがありました。

 

具志頭王子は、琉球王朝尚寧王の弟。慶長時代に当寺の「異国」から来日した人でした。

薩摩が突如開始した殆ど一方的な「放火と略奪」の琉球侵攻が1609年。

その翌年に尚寧王と薩摩藩主の島津家久(忠恒~「家」は家康の偏諱)らと共に江戸の徳川秀忠へ謁見に向かいます。

ちなみに島津は関ケ原後、毛利と同等、石田三成加担を謝罪によって許されていますがこの人を早々に改易していればまた歴史は変わったでしょう。家康の稀なる先見の不覚でした。

また大坂夏の陣での真田信繁を「真田日本一の兵(つわもの)」と評価したのはこの島津忠恒と。戦場ではなく手紙の中のことですね。

 

西国からの途、駿府の御隠居の家康を訪ねるのがまずはスジというものですが具志頭王子は体調を崩し駿河で療養、そのまま亡くなってしまいました。

慶長十五年(1610)8月9日に駿府で家康と謁見後のことですが亡くなったのが8月21日とありますので突然の病死でした(三十三歳)。画像最後の画像に8月24日とありますが、葬儀埋葬された日ですね。

病名はわかりませんが発熱したとありますから琉球の人に致命的となる免疫系を脅かす病気に感染したのかも知れません。

 

沖縄に居た頃に感じたのですが、この具志頭朝盛の「盛」の字は沖縄の人の銘々で好んで使用されていたような気がします。

現代にあっても知る人ぞ知るその「悲劇(琉球征伐)のうえの悲劇(彼の死)」は語り継がれ、その不戦・和議・友好のための行動が讃えられているのだろうと思います。

ちなみに琉球王朝を完全に滅ぼしたのは明治政府でした。

 

この清見寺(場所はここ)の彼の墓は静岡県と沖縄の歴史的接点があったことを物語っています。

墓地は清見寺の墓域となっておりますので境内に入らず西側に回り込んで裏山へ。その最上部に駿河湾から琉球方向を望むように佇んでいます。

劣化が激しく新設されたもの(⑦⓼画像)か2段構えで五輪塔がありますが、後方が当初の墓ですね