大極殿 モニュメントよりかつての本物の史蹟標

京都を闇雲にただ散策できることはやはりそれは私にとって至福の時間です。

「目標、目的を持って」の計画性はいかにも優等生的で子供のころから推奨されてきた何事にも通じる「処世」ではありますが、私はどうもそれが肌に合わず、各々いらぬトラブルを巻き起こしたのも事実ですが、やはり「自由の臨機」はイイですね。何よりそれには新しい発見があるからですね。そういう意味では京都はまだまだ無限です。

 

私が檀家さんたちをお連れする京都バスツアーの傾向がそのようであることはお伝えしたことがあると思います。

特に年配者より「無茶苦茶で無理」という声もちらほら聞こえてきますがそれだけはお許しいただくほかはありません。

また、来年も無計画な計画をたてつつありますのでお付き合いいただければと思っています。

懸念材料は皆さんも1年1年歳を加えていること。どういう変化があって、「参加可能か微妙である」という年代層が増えたという事ですね。

 

さて、長岡京大極殿朝堂院について記しました。

桓武天皇は10年程度でその都を後にして新しい地に都を移しました。794年の平安遷都ですね。

それ以来「都」といえば「京都」ということでスティックされてきたのでした。

千本通について平安京の朱雀大路であったことを記しましたが私たちが修学旅行でうろついていた場所からはかなり西になります。コレは「淀」の地を発する千本通に意味があったのですね。瀬戸内海から摂津難波に上陸しての水運、大陸からの朝廷へ謁見のルートだったからですね。難波宮―(淀)―長岡宮―平安宮のルートですね。大極殿・朝堂院・朱雀大路なる建築物やその名称も踏襲していきました。

 

京都東山に当流の岡崎別院(愛知県岡崎市にあるのは三河別院と岡崎教務所)がありますが、その直近に岡崎公園平安神宮があります。

生憎と私はまだ趣味の「散策」に行きあたっておりませんが、その名の通り桓武天皇を祀った神社で明治時代に作られたものですね。歴史的には100年ちょっとです。

しかしなぜか重文指定多々。要はモニュメントとして作ったのですが規模がデカいということと流れ?で指定されたのでしょうね。

 

そもそも平安神宮の建造予定地は当初あった場所の千本通(千本丸太町)の大極殿跡付近だったそうです。

用地の買収が進まず場所を変え規模も縮小して「やむを得ず」作られた場所が岡崎公園でした。

それにしても地理的に離れすぎてイメージはわきませんし子供たちに真の歴史を伝えられないかも。

 

⑤~⓼大極殿画像は平城京跡のもの。

朱色が鮮やか、広大な敷地に回廊が廻らされています。

①~③が現在の京都千本丸太町バス停の「大極殿遺跡址」の碑ですが後世判明したその正位置は千本丸太町交差点北西とのこと(場所はこちら)。

息子の住まう上京区弾正町より中立売通、約30分です。