9/1に御注意 突然の客人  桝屋富蔵-相良富五郎

ずっと若き頃、8月もこのあたりの日にちとなると、やりたくもない読書感想文に夏の課題各種を尻に火がついた如くの焦燥でいやいやながら取り掛かったものです。

かといって夏休みもあと僅かとなれば、家に居て、もたもたしている身のやるせない、遊びたくとも遊べない口惜しさをも同時発生して、毎年毎年ながら嫌な季節でありました。

 

息子のその時期の学校の課題であった自虐俳句

「宿題が 終わらないのに 海に行く」は今でも当家性質を表わす絶好の合言葉となっています。

 

さてどこかでも記しました通り、我が国の小中高の子供達の自殺者数は先進国中突出しているといいます。365日のうちいったい何日に多いかといえばそれは「9月1日」だそうです。

これは最近夏休み後の始業式を早めにずらす地区もありますが、一言で「長期休暇の明けた学校初日」という意味です。

 

すると我ら大人たちが考える事と言えば、子供たちは自由に過ごした夏休みと新学期へのギャップ、そして友人関係や新しい課題に悩んでいるのだと考えがちになりますが、何よりもその前に「家族の中での彼ら」そのものをケアする必要があるようです。

「まさかあの子が」と取り返しがつかない溜息を吐く前に「念入り」をご注進いたします。

 

先日某所より拙寺に「墓場放浪」に尋ねてきた方がいました。

画像の資料をも持参していただき私も大いに興味を持ちました。

その方は学校教師ながら「不定期採用」ということで毎年夏休みはこの手の旅をしているとのこと。

聞けば移動はママチャリ、宿は野宿、キャンプとのことで省エネ気まま旅。まったく羨ましく思います。

 

今の学校教師の仕事は大変すぎてキツいものがありますが、部活を持たないことは何より嬉しい「非常勤」で、「給料は安いが最高!!」と将来のことは無視したような生き方でした。

 

彼のハマってる時代は江戸後期、それも「二足草鞋」専ですね。彼の所望する件は標記「桝屋富蔵---相良富五郎」の墓の案内(あない)でした。

かれの墓は私の高校時代にはあったものの父の代になって忽然と姿を消した旨話してお許しいただきました。

この件は私の宿題でもありますが何故姿を消したかといえば、大人が両腕で抱えられるくらいの墓石であったため任侠系の不届き者が盗んでいったか、無縁墓として鐘衝堂裏に整理されたかのどちらかです。後者の場合であれば再発見のチャンスがありますね。

 

折角来ていただいたので罪滅ぼしに軽トラに自転車を載せて大井川を渡し島田まで届けました。清水の安東文吉の墓に向かうと言っていました。他人事ですが野宿は蚊に喰われるのが嫌ですね。

 

さて、画像は桝屋富蔵---相良富五郎+2名手配書のコピーです。

「関東御取締出役」と箱根山を超えている事がわかります。

彼が「見つけた」この文書は私にとって新鮮なものでした。

当時の手配書・・・「人相書」のパターンがお分かりになると思います。

まず、添付として似顔絵も付くものですがそちらはありません。

それがあったらまた面白いのですが・・・

 

画像は2枚ですがあわせて1枚分、「右から」読むことになります。

 

                      遠州相良

                       無宿

                       冨吉

                 子(子の年)四十一弐才位

Ⅰ 丈ひくき方  Ⅰ 顔長く方

Ⅰ 色白く    Ⅰ 鼻筋通り

Ⅰ まみ毛こく  Ⅰ 言舌静か

 

                      遠州三軒家

                       無宿

                       嘉吉

                      子三十才位

Ⅰ 丈ひくき方

Ⅰ 顔丸くあばた少し有之

Ⅰ 色黒く

Ⅰ 眉毛其外共常躰

Ⅰ 言舌はやく

 

                   武州五日市在平井村

                       無宿

                    字はねつこ安事

                         安五郎

                                                           子三十五六才位

Ⅰ 丈高く中肉   Ⅰ 平顔ニ而色黒く

Ⅰ 眉毛其外共常躰 Ⅰ 言舌とがとが敷

 

右之者共当月上旬相良ヲ迯去り候ニ付

此度見当り次第早々差押可申旨被仰渡候

ニ付府中宿ゟ達し之趣八日市番ゟ達し

 

                    子七月十四日

                    関東御取締出役

                    渡辺園十郎

                    月番

                     八日市

 

 

 

嘉永5年子:西暦1852年

 

 

八日市宿

[現]八王子市八日町(ようかまち)・南新町(みなみしんちよう)横山(よこやま)宿の西にあり、東側は横山札の辻、西側は八幡(はちまん)宿と接する。八王子横山十五(はちおうじよこやまじゆうご)宿のうちで、横山宿とともに十五宿の中心をなす本宿。宿の中央を東西に甲州道中が通る。

 

過去帳によれば富五郎は文久二年(1862)に亡くなっています~51-52歳~手配書はその10年ほど前のものですね。

このような面白い書面が出たからには真面目に自坊境内の墓探しをしなくてはなりません。

苔がビッシリ貼りついたものを取り去って文字を読むのもやぶ蚊との闘いになります。

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 24 8月 2016 08:57)

    色んな人がいるものですね。
    優雅でいいねー。
    きっと悩みはないでしょう。
    この様な人が先生になればつぶれてしまうんじゃないの。
    余りの仕事の多さ、雑用の多さ。
    先生になっても先生以外の仕事が多いと言います。
    それでも先生のつぶしは効かない。それもその通り。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 24 8月 2016 10:22)

    ありがとうございます。
    私も父親の強い推奨で教師の道を辿ろうかと思いました。
    給料も年金も恩給も確かで、安定的な仕事。
    父親のコネなども期待できたかも・・・
    また僧侶になるためのインターバルにはもってこいであるとの論でした。
    しかし私としては無理にその道を歩まずによかったと思っています。
    というか絶対に不可能でしょぅね。
    自分自身は教師という仕事には向いていなくはないとは思うものの
    その学校というシステムの中には居られないでしょう。
    貯蓄も無く年金も期待できない老後となりましたがそれでよかったとつくづく
    思う昨今です。
    これは他の仕事によって得たものが山ほどあるからです。
    きっとあの先生も自由を楽しんでおられるかと思います。