「阿刀氏塔」なる五輪塔  空海の母  上品蓮台寺

外気35℃などいう数字など最近はごく普通に聞こえてきます。

以前はその度数を見聞きして目を丸くしたものですが、昨今は「暑いがそれほどでもない」程度に慣れに慣れてしまっています。

 

昨日は運転中、妙にシートが熱く感じられました。

停車中に直射日光が当たったせい、自身背中に日光を受けていたことも重なったためだろうとそのまま無視していましたが、あまりにも異常に熱がこもりますのでダッシュボード下に何となく眼をやるとシートヒーターのスイッチの選択が、ON。

よりによって「HIGH」レベルになっていました。

 

先の車から離れ際に運転席で探し物をしたのですがきっとその時に誤って押してしまったのでしょう。

それにしても真冬でさえ眠気を増長させるシートヒーターなどは使用しないのにおかしなことをしでかしました。それほどバカバカしいポカを日々繰り広げています。

 

先日は息子の部屋に転がり込みましたが寮管さんに緑茶を挨拶代わりに持参しました。

寮の前で荷物を運んでもらおうと呼び出した息子に親しそうに話しかけてきた年配の方から「静岡からだと大変だね」などと声を掛けられて、私は「今日は息子の部屋に転がり込みますのでよろしく」といえぱ「あんな狭いのに窮屈でしょ」と。

まったくもって会話というものが成立していますので、私はてっきりその方が寮管と思い込んで、「いつもお世話になっています 静岡のお茶でございます」と手渡しました。

 

再度荷物を取りに戻った息子に「あの人が寮管さんだね」と念押しすれば「あの人は角の八百屋さんだよ」と言われて唖然としました。

持参した茶が他にあったため事なきを得ましたが、私のいつものそそっかしさとはこんなものです。

 

意外な一面でほくそ笑みましたが、息子に近くの八百屋さんの店主と「気安い会話」が為される友好的なところも垣間見れました。

時々買い物に行くとのことでしたが、結果として、私が挨拶することに何らの違和感はありませんね。寮管さんと同様に世話になっているということです。

 

さて、昨日の傘塔婆風の定朝の墓碑ですが、宝珠の部分と傘、そして棹の石の材質がすべて違いますね。

しかし碑文・墓碑銘が記されていますので破損後後世に更新されたものと考えるのがスジです。

あの上品蓮台寺の墓域には寺の創成時代の古さもあってかなり古そうな墓たちが並んでいますので、私の興味をそそります。

 

昨日も記しましたが「蓮台」から「本尊が阿弥陀仏を連想する」と私の早とちりを記しましたが、ここの「蓮台」とは「蓮台野」の地名であって元は「火葬用の遺体を載せる台がある野外」という意なのですね。

蓮如さんの白骨の御文5-16 「野外にをくりて 夜半のけふりとなしはてぬれば・・・」を思い起こします。

 

この地の近くの「紫野」なども荼毘所の煙(煙霧)→「桐ヶ谷」と同様でしょう。お寺の本尊を決めつけるのは無理がありました。

 

京都には大きな古くから鳥葬、風葬、土葬の歴史を持った「荼毘所」がありますが、今や住宅密集地化しているのはこちらだけですね。

阿弥陀ケ峰、東山の「鳥辺野」(「鳥部野」)も嵐山の「化野」も今でさえも自然豊かな地ですから。

この紫野、蓮台野は比較的中心地(御所・大極殿)に近いという利便性が売り物でした。

当時はさすがに人家もまばらだったのでしょうが・・・結局は近代都市化の波に呑まれて墓域が住宅化していったのでしょう。

天皇の火葬場跡も伝わっていることから他の葬場よりは貴族が主だったことが窺われます。

ところで一時は天皇も荼毘に付されていた時期もあったのですね。今上天皇は「自身より荼毘に戻したい」と提案されていました。

 

こちらの北側の墓域には標記「阿刀氏塔」と伝わる五輪塔があります。

これがさらにお寺の伝承で空海の母の墓と伝わっているとのこと。事実かどうかは別としてこの「伝承」は生き続け、京都のそのスジでは結構有名なお話のようです。

ちなみに墓石には一切墓碑銘、梵字等は記されていません。

 

しかし私の思う空海の母といえば、真田信繁が関ケ原後に幽閉された九度山、女人高野を思いますので、結構距離感はありますね。墓、墓碑、供養塔の類はどのように建てて礼拝の対象とするかは勝手ですので、たくさんあることに違和感はありませんが。

 

①②③が「阿刀氏塔」。

ピンボケ御免で失礼します、通り沿いの石塔に「大師母公跡 肺病平癒霊塔」とありますが、墓前に参るか祈祷護摩だきの灰に肺病平癒の御利益があったとの伝承です。

「護摩の灰」については各ググってください。

 

他の石塔はランダムにアップしたものです。夥しい数の石塔は古来以来の「地域の産物」でこちらに集められたのでしょう。