焼売の「売」は「まい」と読む・・・「売僧」利休

昨日の貴重な梅雨の晴れ間の法要の締めは地代の墓地でした。

陽ざしはありながらもそう強くなく開けた山の上で遠景見渡せる解放感と心地よい風に深呼吸。イイ時間をいただきました。

しかし帰り際に、ところどころ雑草がその通路から生えだしている茶畑を見た施主は一言「一番茶は摘んだんだねぇ」とポツリ。

 

どういうことかといえば、以後この茶畑は放棄されるということです。寂しい景色をまた見ることになってしまいました。

そのあと施主は急に涙声になって「今年また3か所の畑を返されちゃったよ」と続けました。

 

荒茶日本一を誇る牧之原はその台地と山の起伏を利用して明治以降開墾されて茶畑となったのですが、平坦な場所よりも狭小斜面を利用した畑が多く目につきます。これはそれだけに当地の農家の努力のたまものであることがわかりますが、あくまでもその努力に見合う結果がついてこなくては無意味となりその経営維持が困難となることは目に見えています。

 

要は最近の茶需要の低迷と買い取り価格の下落ですね。

ペットボトル茶の繁盛もあるでしょうが何せお茶以外の飲料をいただくという習慣が日本人に行き渡りました。

価格の低迷には効率化以外の対抗策はありません。大規模集約化ということですが、この言葉には小規模農家は淘汰されても致し方ないという了解が入っています。

 

よって、その「大規模集約」という思想から漏れる、斜面の小規模農園は放置の憂き目にあうということです。老齢化した茶農業は体力的にも限界が見え始め後継者の不在から放置農園が増える傾向にあり何とか踏みとどまって、継続を試みていた農家も年々下がる茶相場にもはやついて行けず、リタイアが増えていました。

しかし「やってくれる人に頼んで、ついでにみてもらって幾分かの収益を模索する」という選択肢はその際考察するのですが、やはりその選択肢も閉ざされつつある現状が「畑を返されちゃった」なのです。

 

衆人暗愚とは言いませんが(八つ当たりになります)、煎茶の効能はこれまでもブログで記している通り、健康寿命にとって大きな助けとなることは医学的に証明されています。よって今は只管耐えて何とかその生業を継続して欲しいとしか言いようがありません。いつかその効能の素晴らしさに人々は気づいてそのブームは訪れると信じています。

 

せめて静岡人であれば緑茶を飲む習慣、淹れ方の伝授を厭わず、手間も惜しまず、できれば他の多糖飲料を避けさせることを家庭に入れて子供たちにその良さを刷り込んでいただきたいと思っています。

静岡の文化と歴史が消えてしまうのは残念至極ですから。

 

お茶はお茶でも「侘茶」といえば千利休です。

老害(といっても五十代)秀吉の情緒不安定から切腹という憂き目にあいますが、そもそも確定的その理由などいまだ未解明です。

昨晩のドラマでは「秀吉後」を杞憂した大谷と石田の策略説を採用、そのデッチあげのこじつけはオーソドックスで世に知られたものでした。

秀吉参詣で必ず通過する大徳寺三門上部への雪駄履き木像の設置を挙げていましたね。

 

私が思うに、その手のことに気にくわないと思えば「それ、どけといて・・」と一喝すればイイだけですので、大したこととではないと思います。

針小棒大という言葉がありますが、イザ人を陥れんと計略をすすめるとしたら、アレもコレもこじつけて由々しき問題だと「裸の王様」に告げ口するというやり方です。

これは今川義元・氏真という駿府御屋形様親子に取り入って井伊家代々を闇に葬った小野道高・道好父子も同じです。

告げ口の謀略もかなりのワルですが、その讒言を鵜呑みにしてしまう「バカ殿」はもっと罪が深いように感じます。

まぁその手の差配が為されるということは人心掌握術が劣るということの現れですから、どちらにあっても長続きはしないものですね。

 

石田三成らに煙たく思われる理由は彼が堺奉行として堺の利権確保のために向かってから始まったと思いますが

①そもそも堺の商人で成り上がりである

②秀吉側近として私服を肥やした

③秀吉以上に諸侯より尊敬される分野(侘茶)があった

 

という理由が挙げられます。

石田三成も秀吉に拾ってもらったその理由が近江長浜近くの観音寺の「お茶の淹れ方」(三献茶)だっただけにお茶繋がりも少々因縁を感じます。

 

坊さんが私腹を肥やすことを「売僧」と書いて「まいす」という侮蔑の語がありますが、利休は禅に帰依したとはいえあくまでも檀家の身で茶人としてのスタートは「宗易」。

たまたま侘茶がヒットして信長に見込まれて出世ルートに乗ったというわけですが、「とりあえず坊さん」としてのイメージ変更と利休の名のりは禁中での茶会に出仕した際のもの。

名目上、正親町天皇が下した名がそれですね。

これは足利義政が庭師や造作者に直接会話をできるように「〇阿弥」という坊さんの名を付けたのと同様で「茶師と言えど町衆・商人であり同座・会話不可の慣習」をスルーさせるウルトラCでした。

 

そしてまた茶人「利休」の名について。切腹させられたのが天正十九年二月二十八日ですがその茶会が開催されたのが天正十三年ですから彼の生涯(七十歳)のうちその名乗りはたったの6年だったということですね。

その名の銘々に色々と高尚な説がありますが、私は上記「売僧」にこだわって「自利(商い)を休む」=真の坊さんとして生きるでしょうか。

 

利休は堺での蟄居のあと、再び京都聚楽第の屋敷に呼び出されて、切腹させられています。直近の一条戻り橋にさらし首にされてしまいます。これは北条氏政と同様の事後勝手な「めでたしめでたし」の主張で利休こそ犯罪人でありこの仕置きはまさに正当性があるという主張です。勿論天下人秀吉に従えない者はこうなるという見せしめでもありますね。

幾度か記していますが、この手の横暴君臨の支配者(暴君)とその系統は滅亡するというのが歴史のならいでした。

 

以前秀吉小田原攻めの「早雲寺本陣の山上宗二」から堺の南宗寺について記しましたが、そちらの塔頭天慶院の由緒書。

「全堺詳志」の記述が・・・

「利休堺住居の時 この庵の檀家なり」とあります。

天慶院は拝観できませんが、南宗寺境内には拝観料を納めれば散策可能(場所はここ)。

 

千利休始め三千家供養塔が並びます。中心が利休の五輪塔。

 

天正十九年  辛卯年?

「利休宗易居士」

二月二十八日(?)

 

が見えます。