「どうでもイイ」の連発は脳みそ不活性の合図

たとえばイギリスのEU離脱の方向が決定的となり世界に非協調と不寛容の嵐が空き荒れて、その創始の意義が「戦争を2度としないために」という大きな人間存続の本質にかかわる大目的の元にスタートしたというそのくくりを瓦解させようという意思が跋扈し始めたとしても、悪辣低俗の都知事が辞職したとしても、知らない芸能人やスポーツ選手が何か不道徳をしでかしたとしても、私たちの身近な世界の出来事でなければある意味標記の「どうでもイイ」「ご勝手に」の意思が働きますしその考えは大いに肯定します。

 

こんなちっぽけな私が何を言おうが考えようがどうにもなる筈はありませんし・・・。

またそして当流には「執着しない こだわらない はからない」的達観のすすめを旨とする阿弥陀如来一向専念の「おまかせする」・・・他力の本願のスタンスがありますので、特に私はどんな時でもその「どうでもイイ」(おまかせする)を連発しがちになります。

 

しかしながらこれは人によっては「いとも投げやり・・・」に見える言葉であって、また門徒坊主の陥りがちなところなのですが、その考えが我が身に染みついていると、ちょっとした身の回りの事象に対しても「どうでもイイ」になってしまいます。

いい意味では「おますせする」にはなりますが、しっかり「前頭葉のその認知」を認知(メタ認知)しようとすれば、理解を放棄しようとする意志が働きいわゆる「脳トレ」のテーマから逆行しているのです。

歳を重ねるとその傾向が強く出てくるそうで、五感から得られる情報の認識作業が面倒で、どうでもよくなってしまうのです。

 

ということで結論は「どうでもイイ」発言の連発は年齢を重ねたことに出現する脳の劣化が始まっているということなのでした。

脳はトレーニングをすればその劣化は抑えられ、復元することもできるそうです。

それは日々の生活の中で視覚・聴覚を主に五感を働かせる生活が推奨されるテーマです。少なくともマンネリ化した生活は脳の退化に繋がりますので、定期的に表に出て散歩したり、知らない山道を歩いたり、そして歩きながらも視覚に入ってきたものの中からお題を作って(すれ違った人の姿、鳥の囀り、木々の種類等)記憶して、あとから思い起こす作業をするのは効果があるようです。よく言われるのは引き算しながら歩くともいいますね。

一時に複数の作業をすることが脳トレになるということです。

 

要は脳がめんどくさいことを避けている表れなのですが、そのまま脳の思考するままにその楽な方向「どうでもイイ」を選択していたらこれからどんどん脳みそは退化していくということですね。マーケットに行ってはいつもお札ばかり出すようになって、部屋の中は小銭が散乱するようになるのです。

 

「こだわるな、執着するな」は今私の求めている「念仏メディテーション」の必須の意識改革ですが、一般生活の中でその「こだわりの記憶と認識」は捨ててはいけないのでしょう。

 

①は「奥の墓道氏」のかつての指摘。K急百貨店生鮮売り場の一コマ。

買い物は脳の活性によろしいのですが、特に買い物計算は必要。

面倒だからといって常時「お札で御釣り」ではダメですね。

キュウリをまとめて買って損することになります。なんば花月のお笑いネタを見抜かなくてはなりません。

 

見抜けなかったのは先日のG7首脳会議の〆の首相の挨拶。

「またトンチンカンなことをのたまっている」と失笑を買って一同首を傾げていたことを思い出しますが、あれはある意味陰陽師なみの占いの大当たりの感。

「リーマンショック前の状態に似ている」という御発言でした。あの時は違和感を禁じ得ませんでしたが、まるで「アベはアベでも陰陽師の安倍清明」なみ。昨日の恐慌状態は恐れ入谷の鬼子母神でございました。

 

遠州には、というか日本全国に安倍清明の「足跡」が伝わっていますが遠州磐田の城之崎福王寺にもそれが伝わります。

城之崎の城については以前記していますがそちらからはスグ(場所はここ)です

想像するに歴史的に見られた全国行脚する修験の行者、山伏が陰陽師として活動していた痕跡と思いますが・・・。