明智たまこーガラシャと細川忠興の祝言 勝竜寺城

城址特に主要な遺構、主郭付近の様子を見て「小粒」だったと判断してはいけませんね。どちらの現在目にできる城址等、復元は主要部分のみに限定されているだけですから。

 

勝竜寺城は現地の復元された本来の縄張りはずっと広大で、今は住宅地と化しているだけです。地形から言えば桂川に注ぐ小畑川に合流する善峰川を天然の堀とし平城とはいえ低湿地帯を有利に要害性を主張した城だったのでしょう。

ブログでも何度か記していますが「平城の利点」はそれ一本。生半可な山城より防御性は上位である平城はいくらでもあります。ただ長期間の籠城に兵糧欠乏となることは他の山城と同等ですが・・・。

 

秀吉軍が明智光秀の脱出の報を知ってか知らずかについてはどうでもいいこと。とにかくも明智軍が逃げ込んだ勝竜寺城は落とさなくてはなりません。逃げ込んだといっても兵力的には逃亡も出て壊滅状態となっていますので力攻めでOK。瞬く間に落城したことでしょう。秀吉軍は北側からの陸上部分を一気呵成になだれ込んだことが推測できます。

 

さて敗軍の将、明智光秀が籠城か坂本まで引くかと一時は頭の中にあった勝竜寺城は結局は光秀脱出ののち落城しますが、それ以前にも歴史的に著名な合戦や出来事があった城でもあります。

今、一番にその城の観光の目玉としているのが、標記明智光秀の娘たまこと細川忠興の新婚生活の城だったというところ→「長岡京ガラシャ祭」。しっかりNHK大河ドラマの誘致も展開しているようです。

 

昨日記した忠興の父、細川家頭首藤孝の「頭を丸めて」のタイミングは光秀のお誘いを断った際なのか光秀滅亡後の秀吉への体裁だったのかはともかくとして、細川家にとって絶妙な選択をしたことは言うまでもないこと。

その選択を誤れば、それから400年以上も続く細川家というものが無かったと思うと、家系の存続も紙一重であること、そして「生きる」ことがいかに大切かがわかります。

 

大義として主君謀殺首謀者の娘「たまこ」の扱いに困ったのは細川家ですね。

幽閉監視下に置き社会的体裁を整えますが結局は許されて大坂の細川屋敷で当寺超繁盛したキリスト教に入信、洗礼名の「ガラシャ」(グラツィア)が与えられました。今では「たまこ」よりそちらの方が有名になっています。

 

関ケ原前夜となる石田三成の「大坂屋敷大名婦女人質作戦」の拙速は彼の最大の敗因であると後世伝えられていますが「細川たまこ」を自害に追い込んでしまったことは大いなる三成の計算外の事件です。

彼も「まさか」と思ったでしょうが同時に「しまった」と地団太を踏んだことでしょう。

客観的に見れば三成が屋敷を囲んだうえ(細川家正室と子供を)放火して殺したことになりますので、だれが見ても三成総スカンの状況に陥ったはずです。