目黒川 要津(ようじん)橋 海抜3.6m  品川神社

品川2日目の空は青く空気もカラっとして気持ちのいいお日和でした。

上記画像2点は昨日の画像の早朝版。

桐ケ谷斎場の駐車場は地下にありますが、6時間以上(8時に入って2時過ぎ散会)の駐車となると、「さあ帰路に」とハンドルに取っつくも反応ナシ状態になります。

鉄筋の入った閉鎖的空間に長時間車両を置けば2~3分は無反応。しばらくしてデタラメなナビを開始してくれます。

以前からそういう状態に陥っていましたが、さすがにあの辺りでの「立ち位置不明」のままでの走行を強いられるのはキツイものがあります。

要はナビが狂ってしまっているということです。

私が世田谷を主にあそこいらを走り回っていたのは(アルバイトは都内で配達の仕事)学生時代のこと。今では殆ど道を忘れてサッパリわかりません。

ナビなしではカンに頼るほかはありませんね。

 

問題は「現在のナビは正気なのか酩酊状態なのか」の判断不能となることです。狂っているクセに「ここを曲がれ」だの言って人を悩ませ、また真正の道を指示しているにも関わらずホントに曲がっていいものかと疑心暗鬼となってしまうのです。

 

 

「五反田」方面へ東名高速から向かうといえば、以前はとりあえず「首都高3号渋谷線にて一旦環状線まで出てから2号目黒線で下る」作戦を思ったものでしたが、今は3号線池尻ジャンクションからぐるぐる地下に入り込む「首都高中央環状線」というショートカットがありました。

 

混み具合によっては横浜インターを降りて16号から首都高横浜から品川方面に向かう選択肢もありますが、最近は横浜インター付近の工事によって本線上まで渋滞が伸び、降りようという気すら起きません。

よって渋谷線にそのまま突入。池尻からの分岐、中央環状線の恩恵利便を痛感した次第です。

首都高をケチって環八に下り「246」(青山通り)に出る作戦もありますが昼間は信号が多すぎて話になりません。

 

さて、昔の私のテリトリー世田谷の地名を冠に戴く「烏山川」と「北沢川」は合流して東京湾に流れ込みます。そして名前を「目黒川」に変えます。宿場町もそうですがそれ以前から品川を繁栄に導いた運河ですね。品川に目黒川とは少々違和感あり。

「品川」の名称の元はその川を多様な「品」が行き交うことからきた語であるとの指摘が専らのよう。ハッキリとはわからないようですが私もその線が一番しっくりきます。

 

昨日は品川神社の散策について触れましたがその神社源頼朝の創始。目的は海上交通安全の祈願といいますし、室町期では1400年代中期の江戸の雄、太田道灌が江戸城を築城する前にこの辺りの高台(のちに御殿山)に居を構えていたということから品物の流れ―物流―の拠点として把握すべき重点監視地域だったのでしょう。境内葵の御門の使用も散見され、家康はじめ徳川家の加護があったこともいうまでもないことでしょう。

 

目黒川「要津橋」付近の海抜は3.6m(場所はここ)。

この橋の名も簡単には読めませんが「津波に要注意」(ようじん)などとの示唆を思うのは遠州のしみったれ根性からくるものでしょうか。

橋の向こうに著名な東海寺の屋根が見えます(↓画像)。

その奥に高層マンションが建っていますが余計なお世話をしますと・・・つくづく感じますが、私がこの駿河湾という場所で地震について日々恐れおののいていますがこのマンション、特に上層階の方々はただ「景色がイイ」などと喜んではいられないだろうと思いました。現住の方には申し訳ありません。「お前に言われたくない」と怒られそう。

歴とした「台地(岩盤)の上」が想像できないということです。

 

 

ここいらの地盤は目黒川の作った砂洲ともともとの湿地帯運河でしょう。江戸期では河口域と思われます。

上記安政四年の地図左下に東海寺と目黒川が見えます。

その鼻先の東京湾にいたるまでは埋立地ですし、海抜3.6mの恐ろしさもさることながら液状化の恐怖が頭をよぎります。

 

拙寺は海抜7m程度で大した差はありませんし地盤の液状化も十部考えられますが、海の上に建つ高層マンションを想像すると・・・はっきり言って「無理」。

 

もっともこんな嫌味を記したのはあのマンションの1階に道を聞こうと入った際、係員にすごい剣幕で摘み出された腹いせです。心セコくてすみません。