「山崎合戦」本戦地と明智光秀の本陣推定地

昨日6月8日は「ロハ」の日。そのような呼び名は実際にはありませんが「ロハ」とは「タダ―無料」の俗語で漢字の「只」からきています。シャレですね。

ということで昨日は掛川のヤマハリゾートのつま恋での研修会2日目、午前の散会で当組会「ロハ昼食」と。よって図々しく顔を出させていただきました。こちらは掛川地区の法事のお斉会場としてもよく使用されるそうで、近隣のお寺さんは勝手知ったるの様、私の場合はただただ「だだっ広すぎ」てまごまごする始末でした。

 

天正十年の6月2日の本能寺の件により、明智光秀はちょうどこの8日、9日あたりはまさに「天下を盗った」という充足感に満ち溢れていたことでしょうが、秀吉の方はといえば包囲していた高松城の清水宗治自刃という行きがけの駄賃までゲットしつつさっさと包囲を解いて、7日には姫路城に入っていたのですから。

秀吉の「中国大返し」は恐ろしい勢いで京都に迫っていたのでした。

 

天王山周辺の散策はブログにて何度か記していますが肝心の山崎の合戦の本戦の地に関してはまだでした。

息子にナビをまかせてそのポイントが高速道路上になっていることを知らず、降り口を選択せずに走り続けてしまったことも記しました。高速道の天王山トンネル直前に「目的地周辺に到着しましたのでナビを終了します」とのアナウンスに息子のアホさ加減にあきれつつナビに向かって「バカめ」と地団太を踏んだことを覚えていますが、あの時のナビゲーションの案内はまんざら間違いではなかったのです。

 

なぜならばその高速道路の真下に「山崎合戦古戦場」の石碑が建っています。ただ車を降りることができないだけの話でした。そういえばかつて別の場所で、高速道路に近い地番を検索した際、高速道路上かその下の道かをナビに選択をさせられたこともありました。要は息子が寝ぼけ眼で指定したための凡ミスですね。

 

お馴染みのビールやさん工場の南、大山崎町立大山崎中学校の校庭辺りが山崎合戦の本戦場と言われています。

現在の高速道分岐、ジャンクションが天下分け目の天王山ともいわれている場所であることも少々意味深。

そのジャンクションという言葉は、文字通り「分岐」を意味し大いなる天下取りの「分かれ目」となった合戦が繰り広げられた場所でもありました。

 

現在は土盛りをしたベースに高速道路の橋脚が建っているようですが、合戦当時は淀川合流前の桂川に注ぎ込む小泉川(画像⑤ ①②含めて向こうに天王山)と小畑川の中州という立地(河川改修による変更もありますが)がイメージでき、かなりの足場の悪い戦闘が繰り広げられていたという感があります。

 

光秀の本陣はビール工場に隣接した場所で、付近からみれば高台になっています。南側斜面は今は住宅地ですが、おそらく光秀軍はその丘から進行する秀吉軍が湿地帯で滞留するタイミングを見計らって一気呵成に下るという戦略だったかも知れません。

天王山方向、いわゆる西国街道の様子が一目で分かる場所です。

 

光秀の策略は当初の調略による皮算用であれば男山や天王山に人員を配することができたでしょうし、戦略家でしたらその二つの山を捨てることは絶対に無かったでしょうね。頭数が揃わなかった苦肉の策だったのでしょう。

もし2つの山に5000ずつでも配置することができたら狭い街道沿いに伸びきった秀吉軍を三方から衝くことができてまさにその「分かれ道」は変わっていたかも知れません。秀吉軍36K対光秀軍15Kの絶対数は結果は明白。戦闘1時間で光秀は敗走の憂き目となっています。

考えれば光秀の時間勝負の焦燥感は必然でしょうが、秀吉のそれは光秀以上の時間勝負があったはずです。

誰よりも先に主君信長の敵を討つという大手柄をあげて主導権を奪取することです。

光秀は秀吉を待ち構えての真向勝負よりも泥臭く信長の桶狭間的な裏をかくような戦法も吟味してほしかったですね。

 

ビール工場と住宅地の間(画像⑦左側)には堺野一号墳という古墳があって、そちらが光秀の本陣だったという説が専らです(場所はここ)。

これは太閤記に光秀陣は兵力五千で「御坊塚」にあったという記述があるからですね。その古墳の大きさからして五千という兵力に矛盾しないということです。

 

発掘調査によれば、複数の空堀に鉄砲玉の出土もあって、実際に光秀本陣は攻め込まれた様子、戦闘状況にあったことも推察されています。

 

⓼は⑦の先の墓域。古そうな五輪塔、石塔残欠が見られ、戦後の戦没者を懇ろに葬ったという痕跡にも感じます。

おそらく今は住宅地となっている南側斜面の開発の際、出てきた墓碑石仏等をこちらに集めたものでしょう。

 

⑨岩井弘「山崎合戦図屏風」⑩同「天王山崎合戦図」