本能寺の6月2日がきた・・ やはり踊っちゃったの?

暦上「6月2日」とは「時は今 天がしたたる 五月かな」の歌を伏線とし、戦国最期の「下剋上」ともいわれる「本能寺」が起こった日です。

天正十年(1582)の出来事でしたから今年で434年前となります。

 

そして、その件は当流にとっては宗派「衰退繁盛」はもとより門徒「生死流転」に関わる一大事件でもありました。

当時一向衆と呼ばれた本願寺門徒としてはその絶体絶命の窮地に誰もがあの「一人の人物の死」を叶わぬ願いとして心のどこかに置いていたことは事実でしょう。これは自らの存在のためにはやむを得ない闘いであったと、私は個人的に弁護したいところです(仏の教えを説く者が抑圧する者とはいえ「その死を喜ぶ」こと)。何といっても文書には「よろこぶことかぎりなし」という表現が躍っています。

 

その事情は大澤寺縁起にても記しています。あまりにも劇的な出来事でそのうれしさのあまりに「少々盛ってるかも・・・」とは思いますがそれにしてもあまりにもタイムリー感があります。信長の「死」は本願寺と門徒の「生」として、その結論を得たのですが、それはまるでコインの裏表の出来事のよう。

 

その明智光秀の行動に於いては諸説あって彼の心中、バックボーン、断定的な「理由」とその支援者について依然ハッキリしていないというのが現状ですが、紀伊圀名所図会以下『鷺森趁跛跳由来之事 』の信長父子滅亡の談を見てもわかりますが、ギリギリに追い詰められた死を覚悟した状況での「起死回生の報」であったことがわかります。

 

「是ひとへに諸天の擁護なしたまへる高祖の宗門に、仇せる罪を罰し給へるところ厳然たり。

さても御堂には、御門主を始め奉り、群居る門徒の僧侶まで、死したる人のふたゝび蘇生したる心ちして、そぞろ涙せきあへず、かねて頼みまゐらせし本願の誓、まのあたりに利剣をもつて法敵を誅し給ひ、ながく御宗門の仇を亡したまへることのありがたやとて、声々に称名念仏して、よろこぶことかぎりなし。」

 

拙寺開祖、今井権七(郎)も「大喜び」して退去し菊川段平尾に帰ったということです。当流には「歓喜踊躍」「踊躍歓喜」という言葉があることはどちらかでも記しました。「踊っちゃうくらいうれしい」「うれしくて踊っちゃう」ということです。

一般的に人の「人生」というものに「奇跡」など縁遠いものがありますが、その天正十年6月2日こそその名を冠するにふさわしいのかとも思っています。

 

ただし退去録では今井権七は討死したことになっています。

そのあたりからも石山退去録も紀伊名所図解も後世の語り物系にありがちな演出がなされていて、ただちにそれらを受け入れることはできません。

しかし、信長が滅亡して推定する将来の利益に関しては明智光秀が主に蒙ることは画が描けますが、危急的な現実の困難災難から脱出するということと、光秀と同じ将来の利益という二点を考えますと、やはりあの6月2日の事案で短期一番の利益は「本願寺と門徒」だったと言えるのかも知れません。

「最大の利益」は言うまでもなく秀吉だったということは歴史の通りです。

 

石山本願寺から鷺森に移った顕如を慕うグループは当地にて徹底抗戦となりますが(当時は「東西本願寺」のくくりはありません。鷺森は、石山本願寺を徹底抗戦の場と主張した教如さん(東本願寺の祖)が入っていませんので、今は本願寺派の別院があります。)圧倒的勢力の信長勢に押し潰される寸前、本願寺滅亡にリーチがかかっていたのがそのまさにその6月2日だったのでした。私はこの日がくればやはり如来の手で偶然に生かされている身と、明智光秀をそのために「動かした何か」が存在したのかを考えさせられるのです。

 

画像①は天正十年に信長が亡くなったといわれる「本能寺」の石碑。②~⑤が秀吉の「寺町移転政策」によって移った「本能寺」。かつてブログでアップしています。だいたいのところはこんな感じ・・・

 

2015.11.05  織田信長 総見院 本能寺

2015.06.03  南蛮寺

2015.06.02  織田信長 森三兄弟等

2015.05.27  本能寺跡

 

⑤のスチール製の看板はおカネがかかっていそうですが、テカりが見え難くしてしまい失礼します。本能寺で討たれたという人々の名が記されていて興味深く拝見させていただきました。