鬼籍・他界・冥途・冥福・黄泉・永眠・忌中・不幸

先日は友人の母親が亡くなりました。友人は私に「鬼籍にいった」云々・・との表現をしてきました。

滅多に耳にしない少々文学的?というか教養を匂わすその表現にその際の彼の厳粛な心境を感じたものでしたが、その語について「私なら使用しないなぁ・・・」と思ったものです。

 

鬼籍と言えば冥界・冥府の魔王である閻魔大王の帳面(閻魔帳)にその名が「記された」ということの「死」の表現ですね。

敢えて意味を考えてしまうのが理屈っぽい坊さんの性分ですが勿論その際そんな意見を彼に展開する野暮はしていません。

 

使用しない理由はブログでもかつて記しましたように当流に「冥途」の概念が無いからですね。

その際の記述は「冥王星」という天体の果てしない地球からの距離と太陽から離れた過酷な環境である場所を「冥界」に喩え、そのような場所への途に亡き人を見送るという考えには到底納得のいかないものがあるということを記したと思います。そもそも真宗において、古き浄土系の源信からの「地獄」等(観心十回曼荼羅・・・)を紐解く以外は閻魔大王の出る幕はありません。

要は私ども宗旨のこだわりなのですが・・・

 

 

私どもの「亡き人」への行先は「浄土に往って生まれる」の一本ですから「往生」でイイ筈なのですが、イメージ的に「弁慶の立ち往生」から「大渋滞で大往生」、そして苦労・苦難のことを「往生する」といった表現を使用することがありますので、あまり「よろしくない」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんね。

 

その他標記の如く、真宗では縁遠い言葉を羅列しましたが、最初の6つは行く場所の違いからですね。また、永眠はこれからの仏道での活躍という意味からかけ離れてしまいます。元は不活動にして現世との関わりを途絶したいという意思の表れから来た語でしょうね(化けて出られては困る・・・)。

 

そして忌中の不使用は「死あるいは死者を穢れ」として捉える思想から来る遺族のあるべき「謹慎期間」を表したものですから、むしろその語自体を遠ざけて考えています。

亡き人を「忌み嫌う」対象とすることに違和感があるということですね。あいかわらず葬儀社が「塩くばり」をしていることに閉口したことを先般記しましたがこの原理は「塩を撒いて穢れを清浄化する」でした。バカらしいと言ったらお怒りになるでしょうか・・・

 

ということで大きい声では言えませんが(あまりにも習慣的になっているため)年賀状の欠礼も意味なしと考えています。

あくまでも自然体ですね。敢えて真宗のそのあたりの文書の出典を記せば、蓮如さんの

「物忌といふことは わが流には仏法について

            ものいまはぬといへることなり」

                    <御文一帖の九>

でしょう。ただし蓮如さんはだからと言って

「また よその人の物いむといひて 

             そしることあるべからず」

他者は他者、当流は当流と念を押しています。そこのところ、

蓮如さんからの当流の懐の深さについて自賛したくなってしまいます。

 

さて、標記の最後、死を「不幸」と捉える考えも当流にはあまり見えません。四苦八苦中、「愛別離苦」(死別)に関して、なるほどとてもではありませんがハッピーで幸せな気分に成り得ませんね。

であるからしてアンハピー→不幸で一瞬はイイのかなと思いますが、当流では当然の事、現代葬儀でもその「不幸」については使用頻度が少なくなりました。それはあくまでも死は生の裏返しであって、必然です。幸せ不幸せの焦点をそこに持っていくことは本来おかしなことになってしまいます。

ただしそれに丁寧風「御」をつけて「御不幸」などという語を弔電、弔辞で耳にしますがそれについてはまぁ「気持ちとして」承っております。

 

そんな中、寺院自らが主たる僧侶はじめ寺院関係者の逝去にあたってその語「不幸」を使用することがあります。これまで当流寺院に於いてその使用を目にしたことがありませんが、それを使用する意味を私は知りません。

単純に「死を不幸」であるものと定義して、そう記したのであるのならばわかりやすいことですが、私の如く頭の回転の鈍いものにとっては仏門にある者であるからこそその字面「幸・不幸」にこだわることは不思議と首を傾げてしまうのです。

ただしこれも蓮如さんの仰る通り、「そしることあるべからず」ですね。

 

画像は某所の某寺院門前にて。

「山門不幸」は文字通りお寺の関係者、特に住職が亡くなった際に掲げられるようです。

拙寺前住職が亡くなった際には、そのような形式は無く、逝去や往生という文字を使用しました。

昔は「寂」とも記していたようですが、いかにもカッコ良すぎですね。