BC級裁判で処刑された木村久夫   妙教寺の石碑

納所の千本通りを少々歩いた妙教寺。

そちらの境内を散策させていただいて、ある石碑に出くわしました。

それには以下のような歌が刻まれていました。

 

「音もなく 我より去りし ものなれど 

            書きて偲びぬ 明日という字を」

木村久夫という人の名が。

 

何故にしてこちらにこの石碑があるのかわかりませんが、この人は標記の如く、戦後のBC級戦犯として絞首刑となった人だとわかりました。

 

★1921-1946 昭和時代前期の学徒兵。大正10年4月9日生まれ。京都帝大入学後に応召。インド洋カーニコバル島での島民処刑事件で通訳をつとめたため責任をとわれ,イギリス軍の軍事裁判をうけ,昭和21年5月23日シンガポールで刑死。26歳。愛読書の余白にのこした手記が,23年に旧制高知高時代の師塩尻公明の「或る遺書について」で紹介された。大阪出身。~デジタル版 日本人名大辞典+Plusより~

 

調べると上記の歌碑は彼の辞世の歌でした。

その「或る遺書」も凄いの一言。

これを見てやはり「それはそんなものだろう」との日ごろの予想を裏切らない人間の嫌らしさを感じてしまいました。

 

彼は軍の命令で通訳をしていたとのこと。要は現地での日本軍の残虐行為の犯罪人として処刑された人でした。その通訳を命じ、現地で主導的な実質の実行者たる上官は「逃げちゃった」ということが分かりました。上官は戦後も生き残って、彼が死ななければならなかったという大いなる皮肉がそこに存在していたようです。語学力の高さから通訳にされて、上官の言われるように尋問等に加担し、その内容を告げていただけだったようです。

 

遺書に記された「満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない」の部分は憲法を変えれば再び「こうなるかも・・・」を示唆しているようでもあります。そして人間という者のずるさも。

 

遺書の最後の締めの部分

「あらゆるものをその根底より再吟味する所に日本国の再発展の余地がある」を私たちは痛切に感じ取らなくてはなりません。

何故なら今、日本人は十分な「大いなる幸せ」とその余地を謳歌しているのですから。

これ以上の幸せ(飽食と溢れるモノ 物欲)はもはや不要であることを忘れてしまうくらい。

 

彼の遺書が記されたサイト2014年04月30日から。

 

私の死に当っての感想を断片的に書き綴ってゆく。 紙に書くことを許されない今の私に取ってはこれに記すより他に方法はないのである。

 

私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。

 

波澗の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。

 

しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴吏の命ずるところと感知するのである。

 

日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。

 

今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。

 

それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。 

 

私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合

 

弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服はいい得ないのである。

 

彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴ぴて死ぬと思えば腹も立たない。

笑って死んで行ける。

今度の事件においても、最も態度の卑しかったのは陸軍の将校連に多か

った。

これに比すれば海軍の将校連は遥かに立派であった。

 

このたびの私の裁判においても、また判決後においても、私の身の潔白を証明すべく私は最善の努力をして来た。しかし私が余りにも日本国のために働きすぎたがため、身が潔白であっても責は受けなければならなくなった。

 

「ハワイ」で散った軍神も、今となっては世界の法を犯した罪人以外の何者でもなくなったと同様に、「ニコバル」島駐屯軍のために敵の諜者を発見した当時は、全軍の感謝と上官よりの讃辞を浴び、方面軍よりの感状を授与されようとまでいわれた私の行為も、一ケ月後起った日本降伏のためにたちまちにして結果は逆になった。

 

その時には日本国に取っての大功が、価値判断の基準の変った今目においては仇となったのである。しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須なる以上私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。

 

苦情をいうなら敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持って行くより仕方がない。

 

しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。

その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果すであろう。

それを見得ずして死ぬのは残念であるが致し方がない。

 

日本はあらゆる面に為いて、杜会的、歴吏的、攻治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。

万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。

 

かつてのごとき我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。

 

これが真の発展を我が国に来す所以の道である。

あらゆるものをその根底より再吟味する所に日本国の再発展の余地がある。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 18 5月 2016 09:00)

    こんな人がいたことを初めて知りました。
    知覧の特攻隊も同じ犠牲者です。
    ヒトラーも投票で誕生したことは、日本国民一人一人がどこまで考えているのか。
    投票は考えなければいけません。
    でも政治家は、政党は上手に選挙を仕掛けます。
    私は安倍晋三に投票しました。
    経済を活性化するためにはアベノミクスを仕掛けるしかないと思ったのです。
    こちらは経済的な理由で投票しても彼ら政治家は「私のすべて」を
    信任されたと言い訳をします。
    今でもアベノミクスは、仮にうまく行かなくても前を向いての活性化はこれしかないと思っていますが他のこと(安保法案など)は賛成したわけではありません。
    国民にどこまで情報を提供してくれるのか、どこまで国民が勉強してくれるのか。
    でも我々貧民は、目の前の生活が大事です。
    時に流され、それなりに生きて行くことを納得し、努力をしていくだけです。
    最後は木村さんのように全てを納得し、受け入れて他力に任せるのみです。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 18 5月 2016 23:50)

    ありがとうございます。
    仰る通りだと思います。
    弱者は弱者なりに「社会の捨石」となれという社会をつくらないよう
    国民はせめてしっかりとした(詭弁と詐術に惑わされない)目を
    養わなくてはなりませんね。