上物パーツ取り  伏見城は陵墓に  宮内庁管理

昨晩のブラタモリは伏見城でした。

あの伏見のシンボルとなったコンクリートのお城内部に入り込んでその景色を伝えていました。もっともその場所は縄張り図からすれば「花畑曲輪」という場所であって本来の伏見城本丸とは違いました。

 

伏見城域でも当初秀吉の趣味的な余生、隠居所と解されていて、最近まで伝承について実存か虚像かの論争の中にあった指月城

もマンション建設に伴う掘削によってその実存史実を推す圧倒的資料が浮上したことは大きな進歩でしたが、やはりそういった第一級の遺構出現も現実社会の経済活動(住宅建設)の中に埋没させられていくことの口惜しさについて記しました。

 

そして、慶長伏見地震により崩壊した残材を廻して築城し秀吉が生涯を終え、伝承血天井(またはこちら)でお馴染み鳥居元忠の関ケ原前哨戦となった通称木幡山(こはたやま)の伏見城。

家康もこの伏見城に関しては当初重要視して再建し自らの征夷大将軍の宣下を受けるなど京都にて政務を執る地盤としますが、その宣下の慣例は家光の代で終わって廃城。上物は石垣等含めて各所に散らばったといわれています。

 

伏見城の本丸位置については住居地としての浸食は無いものの歴史の解明には厄介な宮内庁管理になっています。

歴史資料と密接に関係する諸物を管理する宮内庁ですが往々にして、その歴史の解明に協力しないというスタンスを貫いていますね。

 

それは「墓守」としての役所仕事であって、無理もないといえばそうなのでしょうが、これはこちら伏見城の跡地に関して明治天皇が遺言として自らの陵墓を「こちらに」(場所はここ)と指定したためという経緯がありました。

 

宮内庁が管理(正式には「伏見桃山陵」)するとなると歴史解明に関してはまったく動かないというのが現実です。伝説と神話を守護するという使命もわからないでもありませんが、あれだけ広大な敷地を「墓域であるから」として調査探索を不許可としてしまうのは、「歴史学問」を極めていく上で大いなる障害となっていることは事実です。

 

今は参道のみ公開されていて、山上に赴くことができます。

まあメリットとして考えれば、その完全管理によって開発経済活動をも退けることになっていますので、自然豊かな緑地帯を維持することができています。

また今は伏見地区の年配者の絶妙な散策路として活用されています。当地区私の2度目の散策の図ですが、平均年齢60~70歳代の人々の憩いの場。あの直線の階段が参道となっていてその上段に開削された平坦なエリアに墳墓が造成されています。