「エ〇バ」が来たりて・・ ついついデカイ声反省

日本国憲法の20条、いわゆる「信教の自由」のおさらい。

 

①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

でした。

 

殆ど20条は①の「どんな宗教であっても信じる信じないはその人の勝手」の思想を代表するその自由の標榜といっていいのだろうと思います。

昨日記した「善悪の物差し」ではありませんが、この社会秩序のシステムにあってそれを逸脱するような教団があったとしてもそちらへの個々の信心というものは保障されているということです。

それら団体というものは新興宗教に多いことは一目瞭然で、反社会的事件というか無差別テロを起こした教団の存在が多くの事件の恐怖と戦慄とあいまってまだまだ記憶に蘇るものがあります。

それら教団に関わった方の家族や韓国系の「なんたら教会」の方などの顛末を各存じ上げますが、ここ相良あたりでは圧倒的に標記「エ〇バ」とやらの被害を訴える人の数が多いですね。

 

俯瞰するにそういった宗教団体に所属したり、所属経験のある方は殆ど①真面目すぎるきらい②派手より地味③大人しい④やさしい⑤問題意識を抱えている・・・性質にあると思います。

そして私の知る限り、その家族というものがぶっ壊れて、ご本人は「幸せ」だとしても他の家族縁者等、周囲の人たちを圧倒的不幸に陥れているように感じます。

 

もしこの「圧倒的不幸」という表現に異論のある方はメールにて反論いただいて結構です。

私が約10年、僧侶実務として切実な問題を抱える方々と接した事案を詳らかにお知らせいたします。

ただし所在および実名をハッキリさせ、誹謗するものでないものに限らせていただきます。

 

さて先日晴天3日目の無風の日、強風で先延ばしにしていた2階の屋根の雨漏り補修に踏ん切りをつけて、あがる直前のことでした。

中年の男性とそれより若めの女性のコンビが拙寺の庫裏玄関に現れ「キリストの話を1分ほどしたい」と切り出しました。

この段階で「ああ菅山から来たご修行の一行だな」と判断し、「エ〇バさんでしょ?」と返しました。

 

菅山とは相良の地名ですが、そちらに彼らの本部らしき異様な建物があるからです。

そちらの教団への一般的なネガティブ意見はネット上に溢れていますので割愛します。適宜検索を。

彼らは「個別お宅訪問」による活動によりこの地区では有名ではありますが、私が特に自己矛盾に陥るケースがコレなのです。

「彼らの意見に聞く耳を持つ」ということは私どもの宗旨から言って放棄してはいけないところで、本山からもそこのところに注文を受けています。

 

「できるだけ時間をとるべき」ということです。

反対意見、反社会的な人たち(その判断はいたって危うい)であるにしろ私たち僧籍にある者に「その拒絶」はありえないというスタンスをキープすべきであるからです。

しかし大いに反省すべき点多々。

 

この辺りの件はしばしば彼らの訪問によって心を動かされ(もちろんマイナス方向に)親友だった「Sクンの自殺」の件をつい眼前に思い起こしてしまうからです。彼はその新興宗教に入っていた人と知り合い結婚してから頭がおかしくなってしまいました。横浜の墓道氏も私も絶対に行きたくなかった結婚式という式典に向かったことが思い出されます。

 

庫裏玄関前、その後ろ姿を笑顔で見守る同伴した女性の存在を意識しつつ「ここに来た目的」を鼻高々に語ろうとする紳士然とした人に向かって私は必要以上にデカい声を出して・・・以下私が彼らにぶつけた会話をかいつまんで記します。

 

①菅山からはみなさんよく来られるがいつも意見は平行線で時間をとっても全く発展がないね。そもそも「エ○バ」さんなら導入「キリストなんたら」じゃなくてハナからそれを名乗るべき。基本的にそれ隠すこと?

②あなたたちがここへ来られるのは「修行の一環」なんでしょ?拒絶排除される事を期待した精神的修練ですよね?。

③たとえば相手の都合も考えないで突然やってきて好きな事を言って帰るというのは、後ろに突っ立っている女のひとは何だか知らないけれどその人に「雄姿 後姿」を見せるためですよね?

④できれば罵倒されてつっけんどんに断られ、時に追い払われるという「疎外感」と「これだけ親身に話したのに世の人は往々にしてこのザマ」「だから私たちのコミュニティーは最高」を演出して教化のネタとし、できれば時に相手を論破して、「カッコイイとこ見せてやる」というとこでしょ?

⑤ということで「あんた方エ○バ」は独善的。

(この段階でさん付けと客としての応対が消えてしまいました)

 

その辺から私の持論が一層輪を掛けます。

 

⑥「Sクンを知ってる?」を一気に投げかけます。

続けざまに・・・宗教というものは幸せ(金とか地位とかではないありのままの存在を喜ぶということ)を求め、それを皆で共有できなければならないものだが、彼を自殺に追い込んだことはどういうこと?お母さんは未だ嘆き悲しんでいるし奥さんと娘も不幸にしたね。

 

すると、「奥さんと娘は吉田の教団に居て幸せに、またまじめに生活を送っている」「Sは教団に反する行いをして教団から離れた身であった」との反論を受けました。「信者もどんどん増えているし・・・」と私が聞いていない優越事案まで。

 

⑦(カチンときて)おいおいそれって自ら命を絶った人に言うべき事じゃあないよね。また死者に追い打ちをかけるような言葉をよく言えるね。

寄ってたかって追い詰めておいて人を死に至らしめた事を肯定しているの?そしてその結果も・・・

それもよく終始笑顔でもって言ってのけるね?

お宅の信者が増えていることは不幸になる人が増えるということで由々しきこと。お寺でもネガティブキャンペーンをやらせていただきますよ。

⑧そしてSクンの母親は残った奥さんと娘に土地建物を買い与えているが今、生活保護を受けているね。

聞くところによればスグにそれらを売却して借家に移っている。資産を保有しているのにおかしな行為だ。

それって法の網を潜った虚偽申請によるいわゆる詐術でしょ?

こんなんじゃあ国の福祉予算も破たんするよ。そういうことを教団がやらせているの?

 

と①→⑧にかけてトーンが徐々にアップ。

はしたなくも境内中に響き渡る声になっていました。

「相手のペースに入らない、怒らない」というのが彼らへの対応の基本ですが、私にとってSクン事件は時効になっていませんから特に逸脱してしまいます。

やっぱり門前払いに越したことがないのでしょうか?

 

⑨「もう帰る」と玄関を出たところで「何だ、もう帰るの?逃げちゃうの?」と投げかけ、後ろで笑顔を維持したままの女性に「そこに突っ立って笑っている女性はいったいどなた?」「何をもってそちらに?お名前は・・」とちょっと攻撃的に。

 

それにしてもよくも私の爆発的な「口撃」に、ず~っと笑っていられるのか不思議でなりません。

私は人を怒らせることに関しては特筆的だと人に指摘されるくらいですので・・・。

 

基本、笑顔は物凄く大切なことですが、人間とは表情の変化を見ながら会話するもの。

100%の笑顔というものには裏があるということを存知して、その隠された内実を警戒、騙されてはいけませんね。

ここポイントなのです。

これは社会に親身の笑顔が欠乏していることの裏腹なのでしょう。詐欺・虚偽・カタリの人たちもまずは「笑顔」から接しますね。

 

雨漏り修理に屋根上にあがっていると、波津界隈を巡った帰りに門前を通過する彼らの姿が。

どうのこうのとその男性が女性に向かってお説教の如き指示をしていました。

 

私ども真宗の教えに戒律の如きシバリはありません。

信者を呪縛するために戒律を効果的に活用しようとするのが新興宗教。

そこに「ありのままの貴方」というもを認められることはありません。

そもそも信仰によって疎外感を思ったり、家族との隔絶を惹起することに不審を感じてください。

微かな悩みと違和感、それを「不幸」というのです。

くれぐれも「幸福」というものの解釈を誤りませんよう。

 

画像は先日行った、横浜の長津田 246号線付近。

「長津田邑の林地蔵尊」です。

「宝暦十(1760)庚辰天 念佛女講中十四人」とあります。

 

古来より信仰は現世利益的伝承が過度に誇張されることが多いのですが、それが「なんでも願いがかなう」ですね。

これが信仰のポイントですが、ここの「願い」に「幸福」という概念が隠れているのです。

現在のように限りない欲望世界の如くの社会にあって、「幸福」の幅が肥大化して「計り知れない」領域に入っている現代の人々の感覚ではピンと来ないかも知れませんが、その願い=幸福とは「ごく身近で今でいうごく些細な事への感謝」ですね。

 

それらに対し現状を真摯に受け入れて、日々生かされているという「あるがまま」を「幸福」と言ったものでした。また念佛は「地域の人々との共存共栄」への祝福と感謝であり「たるを知る」の時代に育まれてきた文化です。

社会の変遷と文明の進捗は「幸福」を増大させて文化(宗教)を確実に蝕んでいますね。

 

こちらは阿弥陀さんではありませんが、少なくともお念佛には「選ばず、嫌わず、見捨てず」(摂取不捨)の心が通っているといいます。真宗にはその感覚が大ですから・・・

 

教団が宗旨を理解しないからといってその人を非難して見捨て死地に追い込むという手段を持ち合わせていることが恐ろしいのです。

私には彼らのすべてが「詭弁と自己満足」に覆われているとしか感じられませんでした。

当本山では(彼らの話も)「聞きましょう」(理解)と言いますが、彼らと話せば話すほど徒労と不愉快に陥りました。

 

ただし、かみ合わない宗旨感に触れずに人間個々として対していれば、ごく普通でまじめ、むしろ好感の持てる人たちなのですがね。どこの世界にもいる「教育者然」「指導者然」とした人間が教団を通して「教祖然」と進化しだしたあたりから迷惑教団へと変化していくのでしょう。 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 22 4月 2016 10:08)

    おーおー、怒ってますね。友人のことがあるからお怒りもごもっとも。
    でも 私は性善説での対応をするでしょうね。
    この性善説が変な教団を育てたのかも知れませんが
    最初から性悪説は取れません。
    もっと突き詰めれば「あんたはあんた。私は私、信じるものは勝手です。」

     昨日、NHK「100分で解説、歎異抄」を買ってきました。
    ぼちぼち読み始めます。次は「お文」の解説本も読みたいと思います。
    しかし 今は繁忙期。まず仕事、仕事。
    このブログはいい休みです。いろいろ書いてください。

    実はエ〇バの印刷を多少しています。
    ありがたく仕事をさせてもらってます。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 22 4月 2016 18:31)

    ありがとうございます。
    私は彼の自宅に伺うことがありますがその都度その話になることは必至で
    彼のお母さんの発する「大なる後悔と猛省」の空気の中に身を沈めています。
    御門徒さんの家庭においても最悪家族がバラバラになった家があって、残されたご年配
    の方は私の顔を見ればその愚痴を発していきます。
    他にも改宗により脱檀するのはかまいませんが墓地等手続きを寺に代行させるというのは勘弁願いたいところです。先日も電話1本、「宅配便で遺骨を送ってくれ」には閉口したところです。
    すべて「自由」の世界で勧誘等宗教活動も結構なことではありますが、時として
    家族や他者に無理を強いているということを少しでも認識してほしいのです。
    そこを一様「独善的」と断じました。

    NHKのあの番組はわかりやすくできていますね。
    「歎異抄」世界の探求に入られるということは私の宗旨のとらえ方への
    異論正論のご指摘へと繋がりそうで、恐ろしいことになりそうです。
    また「御文」も多数あって、広く深いの感がありますね。
    お気に入りの御文さまが見つかりましたらお知らせください。
    私も勉強、練習していつか拝読させていただきます。