気力を喪失させる悲壮感 地震が地震を  磯田氏

私の人生、いよいよ下り坂を駆けだしはじめてから「酷い」と思う体験をさせられ、以後さらに類を見ないような激烈な自然現象、変化を目の当たりにさせられています。

こればかりはどうにもならないといえばそうなのですが、この壮大な地球規模のサイクルでのリアクションの時期にあたっているのか、どうやら命がある限りそういう状況を目にし続け、最後には私自身が総仕上げとしてもっと酷い体験をしなくてはならないような気がします。

 

勿論私の言う「酷い」という体験は2009年の駿河湾沖地震の震度6.5弱の事で、地球の気まぐれで震わせたような地震です。

気まぐれとは「東海地震」の発生について常に「来る来る」と驚かされ続けて成長してきた私たちなのですがその「6.5弱」を味わって、「もう懲り懲り」感が充満していた中、「これは東海地震ではない」と告げられた時の焦燥の再燃からの気持ちです。できればアレで終わってくれて「軽めで済んでよかった」と言いたかったのですが。

 

今の熊本周辺の状況はかつて私が「もう懲り懲り」を体験した地震の類とはまったく違っています。

私たちが体験した「6.5弱」と熊本の「6.5強」や「7.0」などの数値は近いけれども相当の差がありますのでその絶対的スケールの違いもありますが、群発余震の数が半端ではありません。「6.5弱」を体験した身からするに震度3~4あたりでの揺れへの恐怖は増長倍増します。

今回は津波という殆ど地震に抱き合わせの恐怖はなく、「3.11」とは景色を異にしていますが、その分、地震そのものの破壊力を見せつけられています。

 

そして何よりも最初の地震よりも強い地震が控えていたということは驚きです。当初は「古い家屋」の損傷ばかりを伝えていましたが画像を見るに、建築物の新しい古いは関係なかったですね。地べたが動く活断層近くの地震だということでしょう。

「原発は大丈夫」という宣伝と、稼働中の鹿児島川内原発は「止める必要はない」という担当大臣のコメントが報じられていましたが、何か「一か八か、大丈夫だろう」という甘い想定の元発せられたように感じます。それもその判定は政府ではなく「規制委にまかせる」という何かあった時の「逃げ口上」も用意している如く責任を転嫁しているよう。

 

「本当に大丈夫かよ・・・」という疑念よりも、そこにあることへの「余計な心配事」「もしもの事への対応判断」が増える事が嫌ですね。果たしてあの状況で「その時」にどうやって人々を避難させようというのでしょう。四国の最西端にはその活断層の延長にあるやも知れぬ原発がありますね。そこのところ、何を諭されようが耳を貸そうとしないですね。

とにかくこれで、消費税10%へのアップとインフレ目標2.0%話をチャラにする口実ができたというわけです。

 

さて、嫌なニュースが次々と入ってくる中さらに不快な気分にさせる学者の説が出てきています。

専門家はこれから別の活断層が動く可能性を言っています。

「九州を東西に横断する別府・島原地溝帯沿いには多数の活断層が存在し、四国や紀伊半島を通る中央構造線断層帯に連なる」とのこと。すると2回の大地震は余震・本震というレベルではなく、活断層の動きから派生した2つの本震とそれぞれの余震の連続のよう。

 

その考えで行けば東南海地震-東海地震という私たちが常に最大危惧と捉えている地震の引き金がついに引かれたと思わなくてはならないのでしょうか。

 

歴史は繰り返すといいますが、地震発生のメカニズムとしてその発生にサイクルがあることは周知の事。

昨日、歴史学者の磯田道史先生が朝日新聞にコメントしていますのでそのままコピペします。

 

「★歴史の例に学び警戒必要」 

磯田道史さん(歴史学者、国際日本文化研究センター准教授) 

 

熊本市と周辺には東西方向に断層が走っています。

これが動いてM6前後の震源の浅い地震が起きたとみられる記録がこれまでに34回あります。

 

 

 最古の記録は1619年です。八代(やつしろ)にあった麦島城(八代城の前身)が「城楼(じょうろう)崩壊」し「死傷するもの無数」、「都会たちまち荒陵と変ず」と、城下町が一瞬で消滅したとされています。

 

 それからわずか6年後の1625年には、熊本で大地震が起きました。今回の地震では熊本城の瓦は全部は落ちていませんが、この時は天守はもちろん、城内の家は瓦や建具が「ことごとく、おちくずれ、城中に人、五十人程死し、塩硝蔵(えんしょうぐら)-火薬庫」が地震後の火災で爆発。

城の瓦が「五里六里(2024)の外」まで吹き飛んだとされています。

 

 

 さらに約380年後の2000年にも今回と同様に益城町を中心とした震度5弱の地震が発生しました。

 

 

歴史学者として見ますと、現在の地震の発生状況は、17世紀前半に類似している印象を受けます。

 

まず、東北で慶長三陸地震(1611)が起きて、津波が三陸を襲いました。

その8年後と14年後に、熊本で二つの断層地震が発生。

それから小田原地震(1633)、という順番で大地震が起きました。

 

今回は東日本大震災から5年後に熊本に地震が起きました。

断言はできませんが、類似性は指摘できると思います。

 

 

日本列島が地震活動期に入るとき、東北などで巨大地震が起き、地盤に大きなゆがみが生じ、各地の断層を動かすのかもしれません。そのメカニズムや順番に何らかの法則があるのかもしれません。

 

 

17世紀前半の例では、東北震災後に、まず熊本、その次に小田原を中心とした関東の都市直下型地震でした。

今回の熊本地震は、「西国」の出来事として見過ごさずに、家具の固定や建物の補強など関東でも警戒が必要です。

 

 

熊本では、明治22(1889)にもM6.3の大地震が起きています。しかし、人の人生はせいぜい80年ぐらいです。

当時地震を経験した人はもういませんから、この地域の人たちにとって初めての大きな地震ということになるのでしょう。

地図上に断層をうかがわせるような地形の線が存在して、古文書にも大地震の記録があるような地域では、いつ起きてもいいように備えるべきです。

 

一言付け加えるなら、熊本城は加藤清正が築いた名城で、今回の地震で崩れ落ちた石垣は「武者返し」と言われる、上に向かって反り返った構造です。敵には強いが、大地震には弱く、上から崩れます。歴史的に価値のある石垣ですから、官民一体で早期に復興すべきだと思います。 

 

熊本という地の地震発生に昨日「意外」と記しましたが熊本は実は地震頻発地だったということですね。あまりにもその期間が長いので人々の記憶から消えて無くなってしまい、その経験則が生かされてこなかったのかも知れません。

前回の動きから予想すれば次は「小田原」の松田断層が動くということでしょうか。

 

たくさんの方々、特に若い学生が亡くなった報せに愕然としました。あまりにも気の毒すぎて、言葉が見つかりません。

本堂にて静かに手を合わさせていただきました。

 

一時避難、学童疎開場所を検討の方がいらしたらお声をおかけください。微力ながらその声に応えるべく動きたいと思っています。

 

①拙寺安政大地震の記録②阿弥陀様③は駿河湾沖地震で崩落した駿府城石垣が積みなおされて完成してスグの図。二の丸橋より。