家康の「しかみ像」新説   徳川美術館研究論文

先日の私の相良区の女性部の前でお話しした歴史話のテーマは「EKG」でした。

「DNA」というように私たち内部に脈々と流れる文化歴史があるという前振りをおこなってから、その「私の新造語」を披露。

ワケわからん3文字省略文字羅列が氾濫していますが、私も一つ使ってみたかったのでした。ただそれだけ。

 

「K」は「加える」、「G」は「減らす」で「E」がついて「イイ加減」。歴史の講習会で「難しそうだし・・・、夕食後半ばお付き合い程度の時間」という方もいらっしゃると思い、外せば場がクールになることは承知でここは、多少意味不明ながら強引につかみの笑いを取りにいきました。

 

要は私たちの今知っていると思っている「歴史」はこれからもコロコロ変わっていくものだということです。

真田信繁の通称「幸村」の名も北条早雲の名も本人も知らないだろう・・・というあたりから入り、銅像についての話になりました。静岡駅前の家康の銅像の隣に今川義元と伊勢宗瑞に武田信玄そして太田道灌まで建てちまえという暴走振り。

義元銅像が桶狭間にあって駿府に無いなんてどう見てもおかしいですし、伊勢宗瑞(北条早雲)など駿河あるいは伊豆に居た時間の方が長いですからね。小田原駅北口に彼の勇壮な銅像が建っていますが滞留時間では圧倒的に駿河でしょう。

 

猿飛佐助という酒が上田にあるそうですが、架空か実在か物議を醸す人でもあります。いわゆる話半分以下の人。その人の銅像であっても今治駅前に建っているくらいです。

小和田先生が仰っていましたがおいしいお酒、上田の「真田三代」のコピーに「あの真田幸村も飲んだ・・・」と言いながら裏のラベルには創業が元禄時代であったと・・・。

教科書にあった源頼朝や足利尊氏の肖像画は今や別物扱いですし。そのようにして歴史は結構「EKG」・・・私の話も含めて結構「イイ加減」ということから始めたワケです。

 

昨日私が新聞を開いて「ほおっ」と思った記事は標記「しかみ像」について③画像。

元亀三年(1573)武田信玄に三方原戦で大敗した家康は、浜松城に帰るや絵師を呼びよせて負け戦で苦渋を飲まされ歪んだ顔姿を描かせ自分と後世への戒めとしたのだとこれまでずっとその説を信じていましたが昨年の8月の徳川美術館の講演会にて原史彦氏が新説を公表したというものです。

氏はあの著名な画像の発祥元を追ったそうですが、実は江戸時代中期の尾張徳川家九代の徳川宗睦(1733~99)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)が1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したとのこと。当初からこの絵と「三方原」との関連性に触れられた文書は見当たらないそうです。

 

家康が絵師を呼び寄せて書かせたという談はまったくの作り話のようで尾張家初代の徳川義直が父親の苦難を忘れないように描かせたとされていたと伝わっていた話を昭和11年に美術館を創設した徳川家19代の徳川義親氏が、イメージを膨らませて語った「三方原噺」が独り歩きしだして「定説」となっていったと。

 

私はあの時のお話し会で、こうも言い放ってしまいました。

申し訳ないが「田沼意次」の大河ドラマを、おそらくいつまで待ってもまず無理(たしかその手のこと-実現したい-を市長さんが言っていたと思います)と・・・。

 

相良に家康が入る前に武田信玄が高天神城の兵糧基地として高坂(春日)弾正に古相良城を作らせていますので、そこのところを切り口にしたいと持論を展開。

推定地もわかることですし、「伝古相良城址」「伝高坂弾正屋敷址」など積極的に石碑・案内板を置けば、歴史のその時代のファン層の多さから観光資源になるかもしれません。

「古滝境城」の整備と戦国期に特化した散策コースなども紹介できればいいですね。これはそれほど「EKG」とは思えませんが・・・。

 

④は私の推測ですが、家康がその生き方として敬意を表し、讃えていたと思われる松平親盛画像。福釜松平家の祖です。

戦の凄腕で、彼の右に出るものはいなかったという評価があるようです。彼の戦死の際、松平清康は大いに失意したといいます。

家康祖父の清康は家康の知る松平家最盛期の三河を演出し、強き憧れの祖父だったでしょう。その人が松平親盛の死に接して悔し涙を飲んだというのですから家康にとっては伝説の人だったかも知れません。

陣中の画像ですと通常はこの手の肖像となるのでしょうが、やはりしかみ像はなにか意図を感じます。

しかと考えれば「負け戦に絵師を呼ぶ」というのはいくら何でもデキ過ぎには感じますね。

 

①②は三方原霊園入口北側にある石碑。