「五戒」を保ち得た功力 相反する凱旋の語

昨日は東京大空襲の70回目の忌日(71年前)。

現在では「国交」というレベルでは大の仲良しの米国の無差別爆撃(B29約300機)によって一晩で10万人の命が奪われたといいます。

真っ黒に焼け焦げた遺体の積み重ねられた公園に咲く満開の桜を前に坂口安吾は「桜の森の満開の下」(青空文庫)の執筆のイメージになったということはいつかブログで記しました。

 

お国は桜が風に吹かれて散っていく様子を戦に赴いて潔く死にいく民の姿に重ねたのでしょう。「桜」を日本人の心の原風景として刷り込んでいったような気がします。

安吾がその冒頭で桜のそんなイメージが出来上がりつつあったのは江戸期であって「大昔は桜の花の下は怖しい」感覚があったと。

私は安吾のその書に触れてから桜の美しいながらも何か漂ってくる「怪しさ」について感じるようになったものです。

 

ソメイヨシノなどはとかく「戦」を美しく着飾るために「国策」として祭り上げられたきらいがあります。

山にポツリポツリと咲くヤマザクラなどは、そんな人間の作った「役回りは知らん」とばかりに立っています。

本当は植物は人間の行いとは何も関係なくそれぞれの「人生」を自身で讃えるが如く咲いているだけなのですが。

 

東京大空襲のあった3月10日を過ぎるといよいよ春。桜の季節がやってきます。

戦をするとき、お国としては勝利する算段がある程度あっての開戦となるわけで、国民もそれに従って「戦勝」の栄誉と民族的優越感、そして何らかの実利を期待するものです。

よって扇動された国民はいわゆる「挙国一致」に迎合していくものなのです。

 

勝利への強い意識は敗北という事態、ネガティブ感情について抹消し、上記の如く戦時体制下では「負け」の語すら口にすることもできなくなるような統制が敷かれていきます。

要は「負け」についての結果はゼロ意識。

「負け」を想像するだけの「タラ・レバ」もご法度になったものでした。

 

案外、それらは日本的ともいいますがスポーツ(団体戦)にもそのような感覚は残っていて、日本のチームが実力を無視した精神論に走り、また厳しい指摘なしに擁護されるなどがそれで、一皮むけない歯がゆさに繋がっているのではないでしょうか。

 

さて、緑門(りょくもん)は緑葉樹の葉をアーチの如く仕立てて、あるいは装飾した門の事で慶事にそれを人々が潜るという日本の凱旋門のハシリです。

鹿鳴館から日清戦争の戦勝以来、まさにそれが「凱旋門」という言葉に変化して、日本国内で製作されています。

「凱旋」とは勿論「戦勝帰還の記念」として「祝」感を盛り立てるグッズ。

特に日露戦争の勝ち戦でフランスのエトワール凱旋門形式の門が日本に建てられています。

 

日露戦争従軍帰還兵のお迎えは地区の自慢のお祭り的慶事になりましたので、当時は地域住民が総力をあげてその建立に取り組んだのだと思います。

その後の「15年戦争」となると友軍帰還の慶事どころか、内地戦乱で国内凶事。「凱旋」なる語も死語となったのでした。

 

浜松の渋川にはその凱旋門が今も立派に立っています(場所はここ)。

煉瓦はフランス積みというそうで、あの「明治村」にあっても不思議ではないような代物です。おそらくこの地区の人たちは出征となるとこの神社からの出立がならいだったのでしょう。

 

仏教世界でいう「五戒」に掲げられるその守るべきものの一番は「不殺生戒」。

「生き物を殺すことはいけません」ということです。

これが仏教の第一の教えです。

「戦争をする」ということはその教えを破り背くこととなりますね。

戒律破りのその後、「因果応報」はその戒を破ったがためであると仏教的に解釈するのだといえども、いま一つ割り切れないものがあります。

 

既出だと思いますが蓮如さんの御文の二帖-七「 五戒(易往無人)」冒頭部分には

「人間界の生をうくることは まことに五戒をたもてる功力によりてなり これおおきにまれなることぞかし」

 

先達父母たちが「五戒」を守り続けたおかげで「今私のいのちがいきている」「稀なことながらこの世に生まれることができた」ということですね。

 

暗に、たとえば何かの縁で「殺すこと」をしでかしたとしたら「次代はない」というようなことを言っているような気がします。

「凱旋」なる語を真顔で吹聴するような世の中になりませんよう。