開発は生き物だけでなく  鳥居強右衛門らの墓

昨日の法事に京都方面から駆け付けた方のお話。

その方の定年後のお楽しみといえば京都花街とのこと。

法事の前日ということで「ほどほど」にして切り上げてきたそうですが、その日は店内でちょっとしたトラブルがあったといいます。

 

私もなかなかその辺りのお遊びの経験はありませんし、日本在住であってもちょっとした「理解不能」世界の「一見さんお断り」の習慣です。

いまどきの「薄利多売」旺盛の時代に「特定の客のみを大切にしていこう」という特殊な「事業形態」といえますが、私の住むこの地区ではまずそうは遭遇できません。

ところが、京都では祇園周辺、特に「花街」と言われる場所にはまだその手の店が点在しています。

 

その方が店でのんびり御常連や女将と過ごしていると中国と思しき方が「乱入」、丁重にお断りしていたようですが、なかなかその理由を解してもらえないようだったとのこと。

その景色が手に取るように想像できますが、それは外国の方には説明しにくいところでしょうね。

私などはその「敷居の高さ」について暗黙で了解するアンテナは一応持ち合わせていますが、その文化に親しんでいない「外の方」には「空気」が読めないのでしょうね。その「空気」の概念も「意味混濁の領域」かも知れません。

 

最近はこのブログにて「日本の消えていく文化」について私が時に思いついては記していますが、この特殊な「おもてなし文化」もその一つでやはり残していくべきものでしょうね。

もっとも私はそういうお店に入店する機会は皆無ですが・・・。

 

先般、飯田線鳥居駅や鳥居強右衛門の磔刑場址の石碑について記しました。その鳥居駅のスグ近く、新東名高速の脇に鳥居強右衛門と武田方武将四名の墓碑が建つ場所があります。

興国山新昌寺です(場所はここまたはこちらも)。

 

画像は昨日の医王寺に行ったときのものでまだ新東名高速の突貫工事の真っ最中。

そもそもこれらの墓碑がここに集められたというのもその高速道路工事に邪魔になったことから強制移動させられたということです。

このように名のある武将たちの墓で事前に判明しているものであれば、何とか残存するわけですが、それ以外の無銘の五輪塔などは工事土砂の下に埋もれてしまうということはこういう工事につきものです。

ブログのどちらかで記していますが工事と遺跡は相いれないものがありました。

 

私は今回の新東名高速道路の開通に大喜びしていましたが、自然環境へのストレスは勿論の事このように「亡き人たち」に対しても「死んだら仕舞的」解釈でもって、「今の利便性」ばかりを強調しているということを知らなくてはなりません。

こちらの方は暗黙のうちに埋没させてしまうのではなく、墓石が出たとしたらたとえ無銘のものであろうが、「黙って」、手を合わせ花を手向け、大切に伝承しようとする心が必要です。

 

この墓碑たちのように後世に保存されるという努力は稀有なことでもあります。

今度お邪魔するときはもっと画質のいい画像を心がけますね。なお最後の傘塔婆風石仏は近くにあったもの・・・

 

鳥居強右衛門に関しては前回記しましたので画像のみ。

他の武田方の4名の墓碑には当地設置の石碑にミニ解説が記してありましたので転記します。そうそうたる名です。

「横田」は高天神城、甚五郎の抜け道の横田の息。

小山田、高坂は武田家臣団でその名は御常連。

解説文の高坂弾正(武田四天王の一)とは相良城を最初に築いた人でその次男が先日放映の大河ドラマで演出があった~真田の調略で騙し討ちされた~、海津城代の春日信達です。

 

鳥居強右衛門勝商(岩城37)画像①~③

 

 

横田十郎兵衛康景(岩城4-1)画像④

設楽原決戦では勝頼本営に配置され足軽大将で騎馬三十騎(足軽百人)。横田備中守の嗣。 

 

 

小山田五郎兵衛昌晟(岩城4-1)画像⑤

昌晟は、武田本隊が設楽原出撃後の長篠城監視隊。以前は「舟戸18」の畑で、五輪塔が横にあった。

 

 

和気善兵衛宗勝(岩城48)画像⑥

乗本の久間山砦を守備中、酒井忠次の鷲ケ巣砦奇襲隊に背後を衝かれ有海で討ち死にした。

 

坂又八郎助宣(稲葉45-1)画像⑦

「傳」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。