長篠戦 勝頼の本陣  いつかの夏の医王寺山

日本の文化というものが消滅しかかっている諸所の件、思いついては記していますが昨日また「これも・・・」と思ったことがありました。

 

ある檀家さんの家に枕経に赴きましたが、「座布団がない」と施主が恐縮しきり。

施主の息子さんが急の対応をすべく近隣の商店にざっと問い合わせたそうですが、ダメだったよう。

和風建築が衰退し、畳が無い家も多くなっているということなのでしょう。クッションはソファーに付属してあっても座布団単体は必要なくなったのですね。

 

私は「それなら・・私の仕事」と本堂にいくらでもある座布団の貸し出しを引き受け、5枚ほど引っ提げて届けに舞い戻りました。

ちょうどそれを持ち込む際に、ご近所の方たちにその様子を目撃されてかなりバツの悪い思いをしました。

「笑点じゃないんだから・・・」と墓道氏の声が聞こえてきそうです。

 

座布団の件はとにかくも、「息子さんに来てほしい」との施主の談を愚息にメールすると、春休みにもかかわらず帰郷せずに京都に居残って何をやっているかわからなかったあの者が素直に「それでは帰る」と。

一応は、人の情がわかる男であったということに気づいたのと、ほとんど消息がつかみにくくあった状況にあって何とか「あ奴」を相良に一旦は戻す機会となったのは故人のおかげであると思った次第です。人生の中で最も人の忠告が聞けない年齢でこちらとしても「暖簾に腕押しの日々」、放ったらかし状態でしたから。

 

さて、人の忠告が聞けない勝頼が長篠で大負けし家の滅亡に繋がってしまったというお話はよく世間に知れ渡ったところですが、その手の話に尾ひれがついて次のような伝承まで残っている地があります。

 

それが勝頼が大挙して長篠城を包囲した際に陣城とした医王寺山麓の医王寺です(場所はここ)。

その時、勝頼に「戦わずに撤収しろ」と諫めたのが寺の境内にある「弥陀ケ池のアシ」だったといいます。そのアシの忠告に勝頼が逆切れして刀を振り回したたためこちらのアシは以後「片葉のアシ」となったという言い伝えです。

 

「人の声」といえば十界の七番目の「声聞」を連想。

「六道世界」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道)から解脱した七番目以降(四聖―ししょう)をイメージしますが八番目の「縁覚」は七の「声聞」と同様ながら「飛花落葉」「無常」「自然法爾」の如く、善智識(忠告者)不在の「独覚」で「弥陀ケ池のアシの忠告」こそ仏教的示唆を後世に伝えようとする試みと解釈できます。

ちなみに九番目が「菩薩」。十番目が言わずと知れた「仏」ですね。

 

「忠言元耳に  逆らうひとは  反求の深さを要す

         片葉千秋の恨み 誰が為に 心を尽くす」

 

「反求」とは「原因を自分にもとめて責めること」。

反省です。「〇〇のせい」とはてっきり介護度1の叔母と同3の母などの特有フレーズと思っていれば・・・中央のお偉いさん方々、これはこれは、またまたみっともないことで・・・「聖火台が無いスタジアム」は「○○のせい」と責任のたらいまわし。

新喜劇の「あんたのせいや~」を思い出します。

いっそのこと五輪など返上された方がよろしいのでは・・・?

 

私の趣向はもちろんこっちの「五輪」―地水火風空の方。

境内をぶらついてつい目がいってしまいます。

「無常」を独り受け入れて、山野にたたずむ姿に惚れますね。

 

画像は相当前の夏の午後に行った医王寺山。

今は櫓などが拵えられて整備も進んでいるようです。

山城は草ぼうぼうの図ばかりでやめました。

 

そして伊那街道「長篠広面(ひろおもて)」から見た大通寺山と繋がる医王寺山。大通寺山にも武田軍は溢れかえって陣を敷いていました。

 

右折すればスグ長篠城。

日没の図はそのあたりから逆方向。灯油激安1656円/18Lの看板が見えますがこの図はかなりの以前を感じさせます。今は1100円台ですね。

鰻屋さんの看板も見えます。こちらの前を通ると取りつかれたように「奥の墓道氏」が「鰻を奢る」と言います。

鰻が食べたくなったら彼を載せて伊那街道を走ればイイだけですね。

ただし彼は今、血圧、上110代をキープしようと毎日納豆生活を続けています。普段はごく質素な生活をしているようです。