藤枝の青島・池田屋敷  青島長忠

相良あたりの人の藤枝のイメージは結構身近。

今は静岡方面といえばで約1時間の特急静岡行の利用が主ーもっとも私はここ10年以上はバス利用の移動をしたことがありません・・・-ですが、年配者でいえば、鉄道駅に出るにはバスにて藤枝駅というのが一般的だったのでした。

 

そもそも相良人は古くから「田沼街道」の起点でもあり、今はなき駿遠線もその街道沿いに走っていましたので藤枝という町には特に親近感があったはずです。

今でこそ「田沼」といえば「相良」との歴史的連想はありますが、現在藤枝にはやはり駅南スグ(正泉寺の東)に「田沼」という地名が残っていますし、「田沼街道」という名称もあります。

たまたまなのでしょうがその意味からすれば相良は地名として「田沼」を残さなかったことに対して藤枝はその名を残したということに歴史的な思慮の深さというか、大切に残すべきものは残すという気概を感じてしまいます。

 

さて藤枝最南端の山、熊野山正泉寺前から北側①、熊野権現社への登り口②から見た小さな山も家康勢が田中城包囲のために入った陣、砦がありました。現在は「岩城山緑地」と公園化されて、岩城神社が中段にあります。

最上部削平地には何故か意味深な大きな石柱が寝かされています。「岩城」だけにそれでイイといえばそうなのかとも思います。上記最下段の画像3枚のうち左が東側から。高草山越えに富士山が見えます。真ん中が南の方向。海は遠いです。最後の画像が熊野山になります。航空図は上記リンク先ブログを。

場所はこちらを。

 

この地区の名称として、「青島」という場所がありますが、この名も相良あたりの人ならば耳に聞き馴染んだ地名。それは特に青島中学校という校名が大きいですね。

子供を中学でサッカー部など入れていれば対外試合に何度かお邪魔させることがあります。

 

この青島という地名は人の名から。

人の苗字というものは「どこのだれだれ」というところから地名から名づけることが多いものですが、この「青島」は当地を治めた青島氏から取っています。

よって地名の方が後付け。

元は本郷村を称していたそうですが、青島氏の知行が良かったのか地名として青島に変更、後世に残したのかも知れません。

付近の「青葉」や「前島」という地名もそちらから派生したものと考えられます。

 

その青島氏は現在地元からは離れていますが、その墓域が正泉寺の境内にあります。画像②の熊野山上り口のスグ裏にあります。

青島五郎兵衛兵長忠という人(③参照)の墓(清涼院忠山了節居士 没年 元和元年1615 五月一日 六十二歳)が中心に累代の墓が並べられています。

もともとは先述した岩城山の東側にあったそうですが宅地化していますので、「墓-寺へ移動」というところで収まったのでしょう。

移設は昭和40年頃のことだそうですが吉岡御住職がいうには「並べる順番を間違えた」と仰っていました。

 

青島氏は長忠の息子の長宗が家康の元について以降江戸期な渡って継承存続していますが、あまり詳細は伝わっていないようです。だいたいの推測ですが、徳川以前は今川-武田の配下を渡り歩いたというところは駿遠国衆の命脈継承のパターンであったかと思います。

 

岩城山東の麓は住宅地となっていますが、青島氏の屋敷跡といわれる「池田屋敷」があった場所です。現在は正泉御住職、吉岡博道氏が記した石柱が建てられています⑦⑧⑨。

ちなみにこの「池田」は人の名でなくて地名、単純に「池と田んぼ」でいいかと思います。湿地帯であったことが思い起こされます。