歴史を思う地名に立ち止まる  引佐渋川の道

私にとって重宝で便利な新東名浜松いなさI.C.からの「あっちこっち」を適当に記しています。

インターを出て(国道257号線を右折)南下すれば井伊谷方向、(同左折)北上すれば長篠・新城方向という感じでまずはイイとは思いますが、長篠方向に向かうべく左折して少し、スグに右方向(県道47号線)に折れる道があります。渋川方面へつながります。

 

この道をその渋川に向かうというのも車使用の井伊郷の行脚にはおすすめです。

私は地名というものに「なるほど」とか「何?何故?」という風に、いちいち反応して車を停めて感動を得て時に、満足してほくそ笑んでいるのではありますが、この渋川方面へ足を踏み入れることもその期待に沿った反応ができること請け合いです。

 

「足を踏み入れる」という表現は地元の方にとっては不愉快に感じられるかも知れませんが、この愛知県境かつ山深い感満点の場にあって一般的ルート(国道)からは外れてしまうというのは静岡中部に住まう私にとってはかなりのチャレンジ感があります。通常は余程の用事でも無い限りこの道に入る方はいないでしょうね。とか言いながら直近「2度も侵入」していますが・・。

 

ただしこの道は渋川を経由して信州方向に向かう古い街道です。以前記した井平城の裏山のふろんぼさま新ふろんぼさまに続く古道の天保期の道標に「左 山吉田 右 渋川」と記されていました。渋川から北の東栄町は信州から東三河方面または遠州方面に分岐する重要な街道筋です。

 

11年ぶり御開帳される伊平の十一面観音を紹介したところで「行基伝承」について触れましたが、この渋川へ向かうにこちら(引佐町)には「四方浄」なる地名があります。単純に読み解けば「浄土のど真ん中」ということでしょう。特にその手の語には目が行ってしまいます。

その川に架かる橋が行基橋といいます。

御存じ、行基さんは奈良時代の人。

仏教を民衆に伝えるというご法度を犯し諸国を行脚したといいます。まぁ限界がありますので、活動範囲は畿内中心であって、遠州に居たというのは伝承の域を超えませんが・・・。

 

「仏教という学問は特別階級の選ばれた者たちのみ教え」であるという国の姿勢があったために当初は「掟破りの僧」として国からは糾弾されていたそうですが、何せ「民」から絶大な人気。結局は聖武天皇は彼の民衆信仰掌握の実力に折れて大仏建立のために招聘しています。

 

何より行基さんといえば仏教思想の庶民化はもちろん、土木工事と今でいう病院を建立してまわったといいます。

国の政というものから離れ、民の力の結集によって各地方に土木工事―河川改修・灌漑・橋の建設―を行ったということでも知られています。

今とは違い「政」(まつりごと)が真に民衆のためにあって、地方に根差して真に必要な施策を行った人ですが、そんなにたくさんの行基さんが現れていたということは、行基に準じた、あるいは行基の生きざまを倣った坊さんが全国いたるところに出現した時代だったということが言えるのかも知れません。

 

現在は宗教と政治は一線を画すことになっていますが、案外、「政治家です」などと鼻の孔を広げて踏んぞりかえっている連中を一掃して、現在の仏教・キリスト教・神道問わず宗教界のお歴々の学者に「政」を任せれば「いい仕事」ができるのではないかと思います。

 

テレビで見ている限り、あの人たちは「役人が事前に書いたメモ」を「読んでいるだけ」にしか見えませんので。

そういえばタレントさんやスポーツ選手が引退して、政治の世界に「ぽん」と入っている様子。何も知らない世界でも、政など頭数合わせ、カンタンなモノのかな?と思ったりしてしまいます。

人気取りだけでの「ショータイム」にせられて芸人さんたちを揃えた政治にしてしまったのは私たち阿呆な民衆なのでしょう。「私は阿呆じゃない」という方は無視くださいますよう。

①②は引佐町四方浄、行基橋。

③④は「別所」のバス停留所。引佐町別所です。後方は佐久間道路・三遠道路の高架(場所はここ)。

「別所」といえば私はまず「奥の墓道氏」の住まう地の近隣、横浜横須賀道路の別所I.C.を思い浮かべます。

この語は寺などの別院のことも言いますが開発新田、新領地、別家・新家入植地の意と思います。他にも僻地、差別的な幽閉地という意味もあるようですが・・・