文化遺構まぁこんなもの 指月城大発見の末

「何か出たよ」の「説明会やります」の報は耳を澄ましていればかなりあるものですが、なかなか参加するタイミングが合いませんね。

先日も近江高島の大溝城遺跡船着き場址の現説が開催(12/23)されていて、大いにそそられましたが我慢したところです。

これは先日計画倒れになった成瀬谷22日-京都22日一泊-近江23日の2日目の予定でした。

 

未練が残りましたがこれはあくまで私ごと。

しかし本当に未練というか歴史好き、いや文化財保護の観点から大いに「悔恨を残したような・・・」と感じるのは・・・

伏見城の件ですね。

 

伏見城といえば単純に「秀吉の隠居城→家康の政務の城」のイメージですが、少々紛らわしいものがあります。

秀次へ関白の座を譲渡したのち秀頼の誕生そして秀次事件の秀吉の気分変わりの時代のさなか、京都を襲った大地震、関ヶ原の前哨戦と翻弄され続けた城でしたが、都合3回の築城を通しています。

 

現在は京都南の高速道路からもその「雄姿」を拝することができる伏見桃山城という鉄筋コンクリート製元の遊園地の天守閣を想像しますが、各微妙に本来の場所は違います。やはり視覚のイメージはインパクトがあるというものです。

 

当初秀吉が建てた城屋敷は殆ど隠居所だったよう。

何せ風流第一、茶をすすったり月を愛でたりの余生を送る地を選別したといいます。そして大坂城―聚楽第の中間地という好立地。

その名も「指月城」。

東から西に開けた丘陵南側に立地し、眼前には宇治川の流れ。

名月ならずとも月を追いかけ一晩中月を拝するには絶好の場所。時として宇治川の水面や庭園の池に反射し、あるいは器の酒に反射した月を楽しむための酔狂の城が当初の計画でした。

その後徐々に堅固な城塞に化していったといいます。

 

完成後まもなく死者1000人以上といわれる文禄五年(1596)慶長伏見地震により、倒壊しています。城だけで600人が死んだといわれていますので1000人は少なすぎかとも考えますが、当時庶民の住む家は倒壊して潰れたとしても大した人的被害にはなりにくかったとも思えますので、亡くなった人は大型木造建築物の倒壊などが主と考えますとそんなところかもしれません。

 

ところがそのように文献に残っていた指月城、ピンポイントで「ココ」というくらいにハッキリしていなかったのです。

そこへきて今年指月城のものと推定される石垣と堀に建築物の址の発見と金箔瓦出土の報が。今年6月20日には現地説明会が開催されました。リンク先のPDF資料をダウンロードすれば資料も見ることができます(場所はここ)。

 

驚きでした。3つの驚きです。

勿論①は城の場所が特定されたということですが、②は私有地マンション建設中の発見だった③は埋戻してマンションが建つということですね。

 

史料的価値としてはあの安土桃山城とは比較にならないほどでしょう。止むを得ないこととはいえ京都市文化財保護課としてその無念は手に取るようにわかります。

これほどのものが出たというのにその上に集合住宅を建てられてしまうのですからね。

 

京都にはまたぞろそんな場所があって、その場所を買い取って保存できればベストなのでしょうが、やり切れるものではないでしょうね。

一応、企業としては発掘調査に協力するということで工期も遅らせてたのはマイナス要因となりますが、これは法廷義務、社会的責任ですから。

来年には分譲モデルハウスの現説が行われるようですが、ちゃっかり「指月城」の名称を入れて宣伝していました。こちらでも宣伝になってしまいますが参考まで(→ライオンズマンション)

 

私が覗いたのは10月頃。勿体無いなぁとは思うのは、こんな歴史的遺物の上に住むことも含めて、コンクリで固めてしまう事。

 

この丘陵は平安時代からの皇族別荘地であり、また天皇家の墳墓が築かれた場所でもあります。

今は住宅地となっていますが一見だれも住んでいないような集合住宅が並んでいる場所の一画が上記発掘現場になります。

住所地は「京都市伏見区桃山町泰長老176-6」で泰長老公園という手入れのされていない公園の隣には大光明寺陵という北朝系天皇(光明天皇・崇光天皇)の陵墓があります。

 

開けた大坂方向を望めば宇治川と秀吉が造ったといわれる堤らしき形状がわかります。