「71年前の映像 証言者の記憶」NHK静岡放送局

事後報告で失礼します。

標記、今から71年前に行われた「富谷国民学校学童集団疎開」について先週、静岡限定の放送がありました。

たっぷり静岡という夕方の番組内のスポットで「集団疎開」という戦争が子供たちに大迷惑を強いたという歴史の一面を掘り起こしたものでした。時間としては10分程度でしたが・・・。

今の相良でその件を存じている方も僅かとなった現状、それをあらためて報道することは特に新鮮です。当時大いに関わっていた拙寺としても協力させていただきました。

 

HPでも戦時下の昭和19年、289日間の子供たちの「大変」について記していました。番組は親から離れての「寂しく」「喰えない」苦痛生活を強調していましたが当時の子供たちの状況を伝える番組の構成としては少々感動的なものでした。

可哀そうだったお話はやはり食べ物が無いのは当たり前でいつも腹を空かせていたことですね。当時同世代だった叔母さんから聞いた話ですが、みかんの皮なども食していたよう。

 

檀家さんのNさんは当時萩間小学校に通っていたそうですが、狭い校庭に疎開の子供たちが入ってくると、遊び場所が無くなってしまい、地元の子供たちはまず、子供心に疎開の子たちの受入れを拒否しがちになったというのが正直なところだったようです。中には、多少の対立もあったと聞きました。

 

ところが番組に「証言者」として登場した桑野氏ほか皆さん方は異口同音に「辛かったけどいい経験になった」と。

特に「静岡の人たちの温かさに恵まれた」「おかげさまで今がある」などと語られて、本当にうれしくなりました。

戦時下の食糧不足は当地でも当然で、皆が苦しい時期です。

その中で「農家に行って何か分けてもらうのが楽しみ」とあるように当時の心優しい遠州人を感じることができました。

 

当地も艦砲と空襲の恐れが出てきて疎開の子供たちが相良を離れてからの話。

疎開の子供たちが東北方面に再疎開したのち、陸軍の小隊に本堂と庫裏の一部を接収されたそうですが、彼らが入ると食糧のおこぼれが回ってきて腹がいっぱいになれたと叔母さんの話。

軍人はひもじい思いはなかったのでしょう。

笑い話で当時から皆言っていたそうですが、その中でも「まるまる肥えるは炊事班」と。

 

②画像は番組で紹介された拙寺の門ですが、軍が入っていた時は門番が立ったそう。叔母さんの印象で残っているのは「隊長は若くて大人しい人だったがその下の人が靴の紐の件で門番をぶん殴っているのを見たと。

 

その中にはかなりのアホが居たらしく、東京を空襲するために太平洋を御前崎目標に北上してくる爆撃機B-29が丁度本堂の上はるか上空を飛行するのですが、急造の足場で本堂上部に上った兵士があの三八式小銃でパンパンと撃ちまくったそうです。

何事かと思って飛び出した祖父が血相を変えて「バカ野郎」と引きづり降ろしたとのこと。

 

だいたいそんな鉄砲の弾がその高度まで届くワケがありませんが、護衛の戦闘機等に発砲する場面を見られたら「寺が標的になる!!」と勘弁ならなかったのでしょう。

怒り狂うのは当たり前ではありますが、祖父は滅多に怒りを表に出さない(「女形-おんながた」とも言われるくらい)で有名な人でしたので、その話は驚きではありました。

軍の方も坊さんに怒られて止めたほどですから祖父の怒りについて「了解」したのでしょう。

 

尚、どちらの部隊かは知りませんが司令官は庫裏の本堂側奥三部屋が上官等、本堂には兵卒が寝起きしていたよう。

本堂裏には疎開の子供たちが来たあたりから、トイレを数か所作ったとのことでした。

 

画像はテレビ画面より。①小堤山から見た大澤寺。相良というと大抵このカットが多く使われます。

④は疎開当時の画像。

拙寺門前の道路の様子ですが、私がこちらに来てスグ改修した以前の塀が見えます。下の石積みには手を加えずその上のみの改修をしましたが、現在とはその高さがかなり違います。

道路を嵩上げしたことがわかります。

石積みは以前のものは7段以上あるように見えますが今は4段程度で下の部分が埋まっています。

そのうえ塀そのものの高さを低くしました。昔はやたらにそびえ立っていたことがわかります。

 

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (日曜日, 29 11月 2015 20:35)

    私達の町に集団疎開してきた東京の子どもたちは、東南海地震にあいながら、厳しいながらも事故もなく過ごしていったようです。そして、20年6月には再疎開をしていきました。ところで20年10月には米軍が遠州灘の千浜、浜松間に上陸計画中だったとか。地元の子の疎開はどうなってたのでしょうかね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 29 11月 2015 21:17)

    ありがとうございます。
    本当にその辺りの国の「方針」について興味があるところです。
    東京都心等が集中砲火を浴びていたことは紛れもない事実でしたし、あの防戦一方の時節、
    もはや何処に子息を逃そうと変わらずで、こうなったら「総玉砕」という思想が蔓延しつつあるころですね。
    地震で亡くなった子供の話は広がらず、どちらでどう荼毘に付され、どちらに埋葬されたかも知り得ません。国の政策とはいえ、悲しすぎますね。
    広島に所を変え、被ばくしてしまったという子供の話も聞きます。
    地味ではありますが、このような社会弱者にも平然と苦難を強いた戦争というものについて
    今一度再考する必要があると思う昨今です。