ギリギリにトコトン追詰められる  本福寺の歴史

正信偈に登場する当流七高僧の一人「道綽」の記した「安楽集」に

「先に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は先を訪へ」という言葉があります。その理由は

「無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」ですね。

 

現在を生きる私たちは先達の教えをトコトン突き詰めて聞いていけということですが、それを「訪う―弔う」=「たずねる」という語であらわします。これは「死」と「生」が未だ(死した者を迎えても)相互に関わり続けるという意義を記したものだと思います。

 

特にこの「道綽」さんの言葉は私どもが「生死」(しょうじ)に関わる儀式=葬儀の冒頭にて参列者へのご挨拶に使用することが多いですね。よく言われる耳に馴染んだその名称「告別式」=「別れを告げる儀式」を否定し「弔う」=「たずねる」を強調しあくまでも「追善供養に非ず」ということを示すための「開式のふれ」ですね。

 

スタインベックのキリスト教的宗旨感漂う小説「怒りの葡萄」、映画化されたそれはジョン・フォードがアカデミー監督賞をとりました。

その小説に出てくる「先の者が後にまわり、後の者が先頭になる」という台詞があります。新約聖書世界、それに記された語(比喩)の解釈について色々あるようですが、私は「道綽」さんのその似たような語を思いつきます。

 

この小説こそアメリカ国内に於ける、天変地異による農村の荒廃

と移民(日本版「逃散」)、差別、貧困そして何より人間というものの性質、当流『歎異抄』の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」 を示しているようでもありました。

 

さて、門徒の坊主の私が宗祖や本願寺のすばらしさを物語ってもそれは当然、手前味噌ですよね。

他宗の方からすれば、「全然イケてない」と思われる方も当然いらっしゃるでしょうしそれはそれ、人それぞれでまたOK。

 

しかし本願寺の歴史の中で「コレはちょっと・・・」とドン引きしたくなるような事があったということは忘れてはいけません。

一番の反省は戦時下の日本で国民の背中を戦場に向かうべく強く押し続けたという大反省があったことをどちらかで記しましたが今回は戦国期の当流ダメダメの歴史を記しましょう。

 

歴史に纏わる「文書」の信憑性というものについてはよく語られることがありますが、「話半分」と言ったとしてもこれはかなり強烈な内容となっています。それが堅田本福寺、明誓の記した「本福寺跡書」です。

明誓は本福寺の六代目で「本福寺由来記」「本福寺門徒記」という記録文を記していますが、当時(天文年間1532‐55)

畿内で交通の要衝として繁盛を極めた堅田という地での様々な歴史的事象が記されています。

 

これは特権階級から見た歴史ではなく庶民レベルの雑多な感覚と歴史風俗であり、むしろ真実の歴史というものを把握するに手っ取り早い文書でもあります。本福寺は本願寺末であってご門徒の寺(現本願寺派)ですが、その中身は戦国期の状況をいつもと違った目で見ていて、またよく伝わってきます。

 

彼の父親、五代目明宗(みょうそう)も「本福寺明宗跡書」という書物を残していて、それら文書の研究価値は戦国期の民衆を調べるに絶好の材料であることは間違いありません。

門徒衆あるいは一向一揆からみるという特異性はありますが、私は真実に近いものがあると考えています。

 

この明宗という人の出自は伊予国守護河野家といいますからそれなりの身分の人。しかしこの人の生涯は激烈としか言いようのないものだったということが彼の「本福寺明宗跡書」に記されていました。

 

何と彼の生涯のうち三回も本願寺から破門―御勘気―されたとあります。その破門とは「本願寺」の名のりを出来ないということだけでなく、仕舞には寺から追い出されるということでした。

通常御門徒の寺は門徒の中の「有徳人」等が「我家を道場に」と家を提供して発展するものでした。よってその「看板」を外されて檀家さんの移動があったとしても家を追い出されることなどはありませんでした。

 

ところが当時の近江では本福寺は有力寺院の一画でいわゆる「御由緒寺」です。明宗の前々住持の時、比叡山から追われた本願寺八代蓮如さんが入り、九代実如さんも滞留するなど一時的にではありますが本願寺実務を行う寺となったこともありました。

よってただの一道場から発展した寺ではなく、本願寺のお墨付きの寺でした(場所はこちら)。

 

蓮如さんの六男で実如さんの弟の蓮淳が顕証寺(現本願寺派近松別院)に入ったことがケチの付きはじめ。

蓮如さんが登場してから真宗門徒は爆発的に増え続けますが、この本福寺と顕証寺の所在、布教地域が重複していたということがいけなかったようです。

対等の立場であって門徒が本福寺に流れてしまうという蓮淳の焦りと恨みが原因だったと言われますがこの件(1回目の破門)は蓮淳の言いがかりであったと実如さんに救済されます。

実如さんが亡くなると幼い十代証如さんの後継人となったのが蓮淳。再び門徒を取った取られたの見苦しい争いが再燃します。

力関係で本願寺本流を差配できる蓮淳に明宗が敵う筈がありません。ここで二度目の御勘気、破門と相成りました。

 

この段階で寺の財物から財産、勿論有徳人はじめ御頭、各門徒まですべてを取り上げられてしまいます。それでも細々と寺での活動を行っていたところに、三回目の破門、寺を追い出されるという羽目になります。理由は山科本願寺(またはこちら)焼き討ちにされた際に「助けに行かなかった咎」とのこと。

三度目は殆ど感情論。

蓮淳のイジメ以外の何ものでもなかったような。

どんなに偉い血筋を持った人であっても「さるべき業縁」は尽きないものです。当流の、あまり表に出したくない醜態でした。

 

さて寺を追い出された明宗がその破門の恐ろしさについて記述したところは

 

「散り散りに 別れ別れに 行方知らず 乞食死に 凍え死に

  餓(かつ)え死に 路地街道に~」倒れて死んでいったと。

 

本山本願寺からの「破門」というものが一家離散に遇うほどの悲惨となるということはおそらくこれまでの門徒等の近き人々の関係すら絶たざるを得ない壮絶なものだったことが推測できます。

救済を期待できない温情なしの状況はこの「破門」への重大な付属的罰則が控えていて、それは他者も温かい手を伸ばすことができないほどのものだったのです。恐ろしい歴史でした。

 

ほとぼりが冷めて再び入寺した息子の明誓はその父の体験談からこうも語っています。

 

「僧侶の身であっても 仏法だけでなく 

    世俗の商いや食物に 執着することも また大切」

 

今のところ私たちは「飢え死」は考えられないほど食糧は身の回りに溢れていてピンときません。

しかし飢餓は①世界の人々からみればそれは非奇特な事

②日本でもアメリカでも欧州でも世界の天変地異を因としていつでも起こり得る災難であること は歴史が教えています。

 

収穫物が少ない飢餓の時代にもかかわらず御先祖門徒衆は寺を支えて維持してきたという歴史も「たずねて」いかなくてはなりません。寺は命がけで本山を支えていったのでした。

ちなみに現在、上山して対抗勢力と戦うという役は在りませんので冥加金にて本山の上納をさしあげますが、今やそれをサボったとしても破門にされることはありません。

 

画像は本福寺門前の石標。

「舊」の字は「旧」と同じ。「本願寺舊址」の標は蓮如さん旧跡以上に「本願寺」の名のりからタダの寺では非ずというところでしょうか。③本堂前から鐘楼方向。お邪魔した時は植木屋さんが入って松の剪定中。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (土曜日, 21 11月 2015 19:30)

    心の救済を本務とする宗教が災禍を与えるということは理解できないわけですが、中世は良くも悪しくも宗教勢力の実力が強かったということですかね。近代の政教分離の大事さが分かる説話ですね。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 21 11月 2015 22:33)

    ありがとうございます。
    そういう意味では政治家が新興宗教の教祖さまのようにも感じる昨今ですね。
    そしてたくさんの「信ずるもの」・・・自分自身を筆頭に物欲含めて多様に抱え込んで
    日々頭を抱え込んでいる「私」があるわけですが・・・、
    昔の一向宗と呼ばれた門徒は、阿弥陀仏一仏のオンリー1の本願享受の教えを受けて
    いましたので物事に対する考え方にブレがなかったのでしょう。
    とは言いながら、人間のやる事は時として利己的に大きくブレるものなのですね。