「犬神家」と「病院坂」  のタイトル共通点

探偵、金田一耕助といえば横溝正史の推理小説でお馴染み。

たくさんの彼の小説が映像化されていましたが、私はロクに見ていませんし、その小説も読んだことはありません。

ただし、そのタイトルときたらかなりインパクトがあるもので標記の2件など数回聞けば脳裏に焼き付いて消えることはありません。「犬神家の一族」と「病院坂の首縊りの家」です。

 

「犬神」という名称もそうですが「病院坂」という地名は私は特にイメージできてしまうからです。

これまで、窮地に立たされてもいなくてもちょっとした「ヤバさ」に遭遇した際「病院坂になっちまう」などと口走っていました。要は自分で「首を絞める」という意味で使用しますが、殆ど家庭内、友人限定の比喩で、以外の人が聞いてもサッパリ、何のことだか通じないでしょう。

 

世田谷区成城という地は多摩川が削った河岸段丘でその下に野川という川が流れて狛江市との境を為しているような地形です。

私の学生時代の住まいは狛江市東野川、この段丘に向かうために坂道を上りました。横浜在住の「墓道氏」ともよくこの辺りを闊歩しました。

 

その頃は珍しいフットプレーキのみのフランス製の自転車を跨いでえっちらおっちら坂を往来。

そのいつもの坂道ではありませんが小田急線を超えて世田谷通り方向に行った辺りに病院坂という名称の坂があるそうです。

横溝正史はその坂の名をこの小説の名称としたというのが通説ですね。

ちなみに野川を西へ、調布側の閑静な地に、あの未解決事件の現場となった家があります。まったく不可解で気の毒な事件、早い解決の糸口を!と願うばかりです。

 

さて、私は標記2つの題名について、「ひょっとすると横溝はここから?」とこじつけたくなるのです。

ともにその題名のKeyとなる語の「犬神」と「坂」です。

 

ブログでは戦国期の仕事(昨日)について記していますが、私の好きな「乞食坊主」の話。

司馬遼太郎が時宗系念仏衆のそれ(非僧非俗の正当性)を語っていますが、鎌倉仏教以前の仏教(南都六衆)の格式ある寺々は「人の死」には関わり合いを持ちたがりませんでした。

特に神社系では「人の死」こそ最大のケガレ。

 

あの飢餓困窮著しい時代、掛けこみ場として救済を求めに民衆が大挙(難民化)したことでしょうが、病人が境内や門前で死なれてしまう事だけは大いに「災いを招く穢れ」として困惑したと言います。

 

それらの人々とケガレの清掃の役に立ちまわったのが・・・、

犬神人」(いぬじにん  いぬじんにん)と「坂者」(さかもの)ですね。

特に前者は祇園社のお抱え、後者は清水寺の門前の「坂の者」が有名ですがともに東山鳥辺野という葬送の地を控えています。

要は今にも息を引き取りそうな衰弱した病人たちが集まってきたのだろうと思いますが、「犬神人」はそれら「不浄な者たち」を強権で門前払いし高位神職や輿が通るための路上の死者の片付けと清掃を特化した組織でした。

 

さすがに神社の不浄感とは少なくとも「無常」を知る寺のそれと違うものがありますが、やはり人が死した後の処理は放置できない不可欠な作業となります。

そこでその処理を任されたのが「坂者」だったわけです。

寺などには「山号」がありますが、大抵はどこかの「山」の中腹か頂上にあるものです。その参道の脇の「坂」にそういった人々が住まいとしたことからその名となりました。

世の人々は端的に言ってその「坂」を「境界」と捉える傾向があったのでしょう。たとえば現世と冥途を隔てる三途の川を渡す橋のような・・・

 

そういう場所は本来であれば人は忌避すべき場所として居を構えることはありませんが、飢餓、戦闘などの理由で流浪逃散して止む無く辿り着いた者や元々の被差別階級の人々がその「坂者」として寺の下働きをし、ゆくゆく時宗の教えに行き当たって、自ら葬儀主宰者として動くようになって、仏教の大きな流れともなった浄土系を構成していったというのも一説。

 

これが今、出来上がった「坊さん=葬式」のイメージの発祥でしょう。「犬神人」が武装化して自警的警察権を持って僧兵化したのに対し、「坂者」は葬式の主宰者、今でいう雇われ坊主や葬儀屋という職を確立したのでした。ともにアメリカ映画の中では「Cleaner」、今風に一言で「掃除屋」が元の仕事。

 

昨日の「本福寺跡書」の前に記された「本福寺由来記」の京都東山の大谷本願寺破却について、

「御財物は残さず われもわれもと 奪い取り」の略奪があったのですが、それを行った者たちの中に

「山門方~延暦寺西塔等~の あく僧百五十人ばかり」と「御近所の悪党等も人数に加わり」とあります。

この「御近所の悪党」がその「犬神人」だといわれているようです。

 

横溝正史はそのような歴史の前面にあまり出て来ない、何やらとてもおどろおどろしい感覚に至る「犬神に坂」といった名称を効果的に使用したのかも知れないと勝手に思っている次第です。

 

「犬神人」は拙寺に残る掛軸にも登場しています。

画像は当家に残る親鸞聖人伝絵四幅のうちの第六段(洛陽遷化の段)、四幅目の上から2段目のシーン。

報恩講には余間の聖徳太子と七高僧の御軸をずらしてこれら四幅を掛けるならいがありますが、今年は経年劣化のため修理に出していました。

戻ってきた軸は殆ど新調したかの如くの出来栄えで超満足。

当山檀家さんの御寄進が修理に出すきっかけとなりました。

おかげさまです。

何せ京都本山から取寄せたのが享保九年(1724)。それから数えれば今年で290回目の上げ下げ。ボロボロにもなりますね。

 

「聖人、洛陽東山の西の麓、鳥辺野の南の辺にある延仁寺」での荼毘の様子を右端で窺っている集団が「犬神人」です。

オレンジ色の衣装での統一は異様、顔を隠しているかの如くのスタイルはタダ者の集団ではなさそうに見えます。現代の悪党も顔を隠したがりますが、心苦しいところがあるからでしょうね。

それとは対照的に聖人を載せてきた輿の周囲の人たちの中には涙を拭っている様子の人もいます。

画像の左端には荼毘の火焔。その上の段が廟堂の段。

聖人の木造が安置されている様子がうかがえます。