観音寺城の戦い 走為上 箕作城の敗けっぷり

以前からこの交差点を通過する際に、必ずといって「どうする?」と墓道氏より提案がなされます。

それが昼時、夕時となればもうどうでもいいか、という具合でその店の世話になります。

学生時代から馴染んだ「餃子の王将」ですね。

たしか同名で資本の違う店がありますが、どっちがどっちであるかももはやどうでもいいところ。

東本願寺向かいにもありましたね。ついでに入ることがありました。

 

しかし近江くんだりまできて「それかよ!!」という不満が二人とも少なからずあるということと、来たからには時間を惜しんで「食事抜き」にするなどへっちゃらなものですから「どうする?」となるのです。

 

ただしこちら、五個荘交差点の「王将」は特別です。

こちらへ来ると「ああ近江に来たな」というポイントなのですね。

例の観音寺城の繖山と箕作山(清水山)のちょうど間にあるのです。先日の地図画像2枚。

 

箕作山の箕作城は近江守護六角家の守護代をつとめた伊庭満隆の子を殺して将軍家を怒らせ出奔するハメとなった守護六角政尭(まさたか)の作った城です。観音寺城にも伊庭丸の名は見られましたね。

 

「守護」はまず世襲。その系譜により長い間「一流」の特権は続きます。強権の維持が一族の繁栄を生むのは当たり前、そしてゆくゆくはその各分家の繁栄が一族崩壊の芽となることは歴史の必定なのです。

端的にいえば兄弟間、甥・叔父の間での争いが惹起するわけですが、六角家においてもその一族縁者多い中、紛争つばぜり合いは例外ではありませんでした。

幕府の意向と応仁・文明の大乱に翻弄させられたことも「時流」だったのでしょうが。

 

六角政尭が再出馬に動いたのは京都の騒乱(応仁・文明の乱)の際ですね。東西分かれたその戦いは管領家と同様縁戚間での泥試合、政尭も反対勢力からのお墨付きを得て都合よく守護返り咲きのお達しと相成ります。そこで観音寺城に対峙するが如くの場に城を造ったというわけですね。

その後紆余曲折あったのち守護統一がなされて箕作城は観音寺城の支城となったのでした。傍から見れば六角氏のお城ではありますが、その内訳は欲望蠢く権力争いを通しているのでした。

それが一言で戦国ですが、六角氏は家中紛争で終わった家といえば悲しすぎますが、そこから脱却できない(統一できない)ところに弱さがあったのでしょう。

 

通常は支城といえばある程度、本城との距離があるものですが、こちらが隣接している理由はそれです。

あれだけだだっ広い観音寺城にこの支城は殆ど無用だったのではないでしょうか。

却って兵力を分散させてしまい、集中して大兵力を迎え撃つことが難しくなるかもしれません。

 

永禄十一年(1568)の信長上洛の際、上洛の抵抗勢力の第一人者だったのはもはやこの六角親子以外何ものも無かったわけで、信長上洛を歓迎しがたい面々としてはこの戦を固唾を飲んで見守っていたことでしょう。

 

世に言う「観音寺城の戦い」の本戦場は箕作城で、この箕作城の状況を見て敵前逃亡した観音寺城でした。

 

六角家は箕作城に約3000の兵力を集中させてそれぞれの本城、支城への包囲に関しては「相互に敵の背後を窺う」というスタイルを貫こうと、長期籠城によって相手を厳冬期まで引きずり込み消耗させる策であったことだったのでしょうが、まったくその戦いを想定して差配した六角家側としても大いに驚く、たった1日の落城で呆気ないものがありました。まさに想定外の出来事が眼前で展開していたのです。

まぁ、「ひょっとして十倍?」とも思える攻城軍を見て殆ど「ヤル気なし」状況になっていたのかも知れません。

 

多勢に無勢の対処法には・・・

兵法三十六計の最後の計「走為上」(そういじょう)があります。「三十六計逃げるに如かず」ですね。最良の策とは言われますがこれはあくまでも再起可能のある場合のこと。

六角氏は戦国初期の身内同士の斬った張ったの虚勢のぶつかりあいでその手の戦闘を続けていた先祖伝来の癖が出たのでしょうが、その策を取った以降二度と観音寺城には戻ることはできませんでした。

 

観音寺城内陣中評定が熱を帯びたでしょうが、「冬まで持ちこたえれば勝機」などという理由が罷り通ったということは、あの時点ではまだ信長の強さについては半信半疑だったのかも知れません。

この時期は義理の弟の浅井長政、人質時代の弟分の徳川家康の両「弟分」が合力しています。浅井家などは六角被官の身、下剋上した家ですからね。

成瀬藤蔵正義も箕作城の合戦に出陣して功をあげたといいますが、あれだけの軍勢の中にいて、徳川勢はやはり外様、最前線に飛び込んでいかなければならない立場だったようです。


画像①②③は既出。①のAが観音寺城Bが箕作城。

③⑦⑧が繖山から見た箕作山。同④がランドマークの電気屋さん。⑫が箕作山よりの図。


小谷城と虎御前山の如くの近さです。②の☆印と⑤⑥が五個荘交差点。登城口は数か所ありますが、私どもは五個荘交差点を北に行って右折、貴船神社登城口から登りました。1度目は雨で途中断念。2度目も降雨直後で苦しい登攀となりました。

本丸を推定すべき頂上付近は削平されて景色を楽しむのみ。

石垣と土塁の少々は窺えますが観音寺城の如くの圧倒感はありません。

いずれは他の登城口もチャレンジしたいと思います。