御開祖 非僧非俗の原点  法難   住蓮と安楽の墓

住蓮と安楽の件と法然と親鸞の流罪については「承元の法難」をググっていただければと思いますが、法然門人らの処刑と流罪は南都北嶺の訴えによる念仏への横槍が原因というより、後鳥羽上皇が側近の「すず虫・まつ虫」と住蓮房・安楽房らとの密通を疑った可能性―やきもちとプライドを傷つけられた怒りがその理由であったことは間違いないでしょう。

彼らの処刑については法然側の記録と『愚管抄』に斬首の事実のみが記されているだけで、公家皇室側の記録にはないそうですね。みっともないから暗黙にして闇の中に封じ込めるようにも見えます。

 

ということでロクな法定手続き等は通さずに私怨による処刑というのが定説ですね。後鳥羽上皇が直接指図したか、役所警吏部門(検非違使)の暴走かはどうでもいいところ。

『教行信証』後序の出だし~開宗の理由~など親鸞聖人の「怒り」が躊躇されることなく吐露されています。

 

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃(すた)れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。

しかるに諸寺の釈門、

教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。

ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。

 

主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ

これによりて真宗興隆の大祖源空法師(法然)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥り(みだり)がはしく死罪に坐す

あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。

予はその一つなり。

 

しかればすでに「僧にあらず俗にあらず」

このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。~

 

寺や天皇の実名を何ら憚ることなくあげていることにその気持ちが表れています。

 

彼らの墳墓は田畑の中にポツリ、この辺りを近江八幡市千僧供町といいます。地名も何か頷けるというか、興味の湧く名称です。 安楽(向かって右)は六条河原で斬首、住蓮(向かって左)は近江国馬渕へ送られて斬首されました。

馬渕の村民が元禄期にこの墳墓を建立したといいます(場所はここ)。