絶頂に在りて驕り無し 非常に在りて動ずる無し

昨日は秀吉に欠落していた人間にとって不足しがちな思想「足るを知る」という語を記しました。

教訓染みていてかつ今の経済主導の世情にはそぐわない考え方かも知れません。

もとより現代人に対して大切に伝わる教訓といえども聞く耳を持つ人は少ないでしょうし、そんな古ぼけた事を言っていたら「生き馬の眼を抜く」が如くの世を渡ることなど難しく、あっという間に後塵を拝することになるだろうと。

 

経済界の「立派な会社」たちは毎年毎年、前年同月比やら前期比、前年比、四半期決算について一喜一憂、至上命題は「右肩上がり」のみ。成長し続ける事こそが使命なのですね。

現に異常な低金利と円安効果によって輸出企業ほか大企業(10/30までに発表された上場企業の4月~9月期)の経常利益は約60%以上の企業で前年同期を上回ったといいます。

 

景気は無茶苦茶いいということになりましょうが庶民の好況感なんて「ゼロ―」。

テレビや新聞紙上では貧困母子家庭やら老後破産など超不況っぽい話ばかりが踊っています。むしろ「悪化してる」ような気もして大いなる疑問。

 

右肩上がり持続の使命というものは超効率化と時間短縮に背中を押されてのことなのでしょうが、名門と言われていたような企業たちの昨今の「数字の書き換え」「信じられないようなインチキ」の頻発はそれら先人たちのきついお達しの数々を無視してきた咎でもありましょう。

 

東芝の粉飾決算のウソ八百、今ニュースを賑わしている杭打ちデータのデタラメなどがそうでしょう。これ以上広がっていけば「技術大国日本」などいう言葉も信用も「ゼロー!!」。

要は数字を机の上で書き換えてお工作し、体裁を整えるというやり方で商売するというものですから、故意であってかなりの悪質さが伴っています。なにより高額物件ですからね。


昨日はタカタのエアバックの不良について国内の傷害事案がついに出ましたね。海外で指摘されていて国内で出ないということの不思議を感じていましたので、「やっぱりな」という思いです。

右肩上がりの「飛翔伝説」は無理な時代であるのですがこれを再来させようと金利と為替の操作を政府主導で行っていることは周知ですが、考えてみれば壮大なインチキですね。

そしてこの刹那のチャンスで一気に稼ごうとする勇み足が今の様。

もういい加減ガツガツと稼ごうとする「馬の眼」の考え方からの軌道修正が必要だと思うのですがね。

政治はその経済界有利の政策を相変わらず強く進めていますね。それが電気代を安くするための原発再稼働に繋がっているというワケですが・・・。

俯瞰してみれば、「企業に優しく、人に厳しく」がスローガンのようにも感じてなりません。

まず人を大事にしなくてはね。信玄の戒めが思い起こされます。

 

 「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」


「世渡り」という語については源信のお母さんのうたを・・・


 「後の世を 渡す橋とぞ思いしに 

            世渡る僧と なるぞ悲しき」

 

さて、標記の語「絶頂と非情」の対照が先日記した成瀬の衝立の書の意ですね。あのままでは漠然として意味が取り難かったことで追記です。

 

これは『酔古堂剣掃(すいこどうけんそう)』という書物にある言葉です。

中身は人の生きるべき姿、こうありたいという記述なのですが、現代人が目を通せば案外新鮮でしょう。というのも現代人というものは私も含めてその書の中のまったく真逆の生活を送っているからですね。

基本は「世間の名利から隔絶」した眼を通した名言揃いだということ。

いたって儒教世界を思いますが、親鸞聖人の「自然法爾」に通じるところがあって内容も阿弥陀世界にも通じてるのかも知れません。

 

面白いのは江戸から明治大正まではよく読まれて解説書まで出ていたそうですが、敗戦後から高度経済成長にかけてその手のものは皆無となったということ。

人間の思考というものが、1億総拝金的個人主義になったという証でもありましょうか。

おカネは大切ですが、ほどほどにしないと人間性をも喪失するという警鐘でもありますね。

 

秀吉のカネにものを言わせた壮大なスケールといえば醍醐の花見。そちらにはタケノコ料理というものを提供する店がありますが、画像は豊国神社祭礼屏風に登場する、お馴染みのタケノコ男。

カボチャのバカ騒ぎは終わりましたが、コレは日本における400年前祭り参加者の変装姿の一コマ。コスプレの最古たるもの?。

京都豊国神社にて。