生前予約「八幡大菩薩」叶わず「豊国大明神」

当ブログにて「八幡」について超断片的ですが、ちょこちょこと記していたことを思い出します。

ざっとページ一番下の「サイトマップ」で「八幡」を検索(Ctrl+F)すれば表題だけでも14件。

それだけ色々な場所にその名所旧跡が散らばっているということですが、古く源氏を始め日本の武将たちから武神としての崇敬を集めつづけていたということでもあります。

武将に限らず伊勢の海賊たちの「㊇ 〇に八の字」など、「戦闘」意識を高揚させるためにも使用されたものでした。


天下に名だたる武将たちはイイ悪いは別として、とかく自分の守護する神仏を決めて、トコトン自分自身をそれに近づけていくという傾向があります。上杉謙信の毘沙門天への帰依は大河の「風林火山」でも強調されていました。

武田信玄は「自分」を仏師に彫らせて不動明王としたり、勝頼で言えば諏訪大明神の名で進軍を計りました。


信長の安土以降の神格化もそうですが天下を完全に掌握した家康の「東照大権現」(薬師-瑠璃光-如来の生まれ変わりの意)などは死後に体裁としいは後水尾天皇から贈られたということではありますが、家康や秀忠の意向を汲んでのモノだったことは当然でしょう。


秀吉の場合は希望は「八幡大菩薩」でした。

先日106歳で亡くなった方も生前法名を所望されその名のりをされていて、「後生」の事を思量することは当たり前ではありますが、秀吉のその「八幡」の所望には当時、「いくら何でも・・・」というその「図々しさ」に呆れかえった人たちが居たでしょうね。


秀吉の意図は我こそが新八幡(いまはちまん)として降臨、再生して日本国を守護するのだという少々高慢ちきな大望があったのでした。

そもそもですよ、「八幡」といえば源義家、八幡太郎とも言われた源氏の棟梁からの武神です。素性から源姓を名のれず、その結果、幕府開幕のための役職「征夷大将軍」も無理、それでは・・・とカネにモノを言わせて「関白」という古い体制のトップの役職をゲットするというウルトラCをやり遂げて、まんまとしてやったりの天下統一。


そこに来て自分が老いぼれると「いまはちまん」とどんでん返しの神格化を目論んだというところですね。

何故にして周囲が呆れかえったかというのはそこのところですが、日本国中にあるこれまでの「古い八幡」の地位が「新(いま)八幡」に取って代わられるという恐怖にかられていたことでしょう。


ということで裏からのロビー活動があったかどうかは知りませんが、朝廷へのその神号の下付所望はいくら何でも却下されます。八幡神というのは実は武将の崇敬もありますが、天皇家起源伝承もある神ですからね。

ただ却下してはちょいと具合が良くないものですから後陽成天皇は「正一位」の神階と「豊国大明神」という神号を与えたのでした。

以来、豊国神社なる神社が現在各地にあるということですね。



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コメント: 2
  • #1

    くりくり (土曜日, 24 10月 2015 00:05)

    信仰について
     自分の家は無くて恐縮なのですが、私達の生活している集落には 石仏、お堂、常夜灯がとてもたくさん残っています。先祖のお寺はあるわけですが、それとは別に地の神様や家の神様、畑の神様など祠は小さくてもあります。竈の御札は地区の回覧板で回るので、おつきあいのつもりで買います。ちょっと前の人々は、日々信仰とともに暮らしていたのでしょうね。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 24 10月 2015 02:04)

    ありがとうございます。
    竈の御札とは風情がありますね。
    「おつきあい」の程度なのですね。
    どこまでできるかが現代の問題なのですが、近隣関係が希薄化しつつある今
    何処でも古くからの伝統的地域信仰の火は消えつつありますね。
    これは都会に近づくにしたがってその傾向が強くなりますが、きっと
    「自分教」という社会的に蔓延する新思想に宗旨替えしていこうする過渡期なのかも
    知れません。
    経済一辺倒の思考がそうさせることはうすうす見当が付きますが
    今一度助け合いと共存の心を復活させないと、そっちの方向から「日本の力」とやらは
    減衰していくでしょう。