真東の比叡を借景  見上げれば血天井  正伝寺 

以前2010年のお寺の旅行で「三十三間堂周辺」という触れ込みで募集をしました。普通の修学旅行並で誰もが「ふーん」という感じで皆さんも参加されたのではないでしょうか。

丁度春休みに合わせた企画でしたので次男他やその友人たちも参加していました。

 

実はこの触れは表向きで、私としては、耳塚→方広寺→養源院コース(秀吉の輪廻転生ラインの切断―家康の東本願寺造営―ブログ)が本意でした。

位置関係(場所はここ)としては勿論三十三間堂は目の前ですので入場しましたが、それら養源院等の目的地の固有名詞を募集段階で詳細解説するのはやめておきました。

 

当時のブログを検索すると私の母方祖母のすずさんと昨年会社更生法管理となってしまった「みのや吉兵衛商店」について記していました。

「みのや」の件はちょっとした時間の経過(450年)がありましたがショッキングな出来事でしたね。

 

養源院といえば「血天井」でお馴染み。

「血天井」名称は各所に伝わっていますが、こちらは伏見城の床板のこと。その伏見城の元の床板はこれも各所の寺院に引き取られて天井板として再利用されたといいます。

 

関ヶ原前哨戦にて捨て駒の如く伏見城に籠城した家康家臣の鳥居元忠らが大量の西軍に包囲されて、落城します。なぶり殺し状態に陥いる寸前、家臣一同腹を切って果てたその最期の廊下を寺の天井としたものです。

伏見城落城後は、「関ヶ原」が落ち着くまでの2か月の間、その遺骸は放置され続け、床板にはびっしりと血のりが付いて、中には人の形を連想できるように影が移り、もはや拭うことも不可能だったといいます。

 

養源院は立地がイイこともありますが、その伏見城リサイクルの天井中、一番に有名なお寺でした。人数がまとまると順次解説付きで俵屋宗達が描いたといわれる杉戸の絵も同時に見ることができます(最後の画像白象-京都市観光協会より)。

⑫方広寺梵鐘事件の梵鐘も懐かしんでついでに。囲まれた文字が「国家安康」と「君臣豊楽」でした。

 

画像①~⑪のお月見の図(こちらは某雑誌に掲載された特集記事。切り抜いたページを撮影させてくださいました)までが正伝寺(場所はここ)です。

 

比叡山を借景とするサツキの庭あるいは東から昇るお月見の庭として有名なお寺でもあります。

サツキも名月も両方とも時期を外してしまいましたが「獅子の児渡しの庭」と呼ばれ枯山水にありがちな「岩」を使用していません。小堀遠州作と言われています。

本堂(方丈)は伏見城から移築された御殿と伝えられていますが障壁画等、内部は撮影禁止でした。