相良田沼城の元の候補地「鉢(八)形」と宝永地震

ユーラシア大陸に向かって太平洋側のプレート(ベルトコンベアーの如く)がやってきて潜り込む場所を南海トラフ、駿河トラフというのだと思いますが、要はそちらで巨大地震が起こるというのが定説。

かつて起こったこの地の歴史に記されているもので「安政地震」(1854)を筆頭に「宝永地震」(1707)について耳にします。

 

子どもの頃からその手の事を聞かされ続け、あの3.11以来「次はここ」と言わんばかりにこれら地域に住まう人々はその覚悟を試され続けています。

牧之原地区の榛原側からは津波タワーの完成の声も聞こえだし本通り商工会のタワー兼事務所の建設も進んでいますね。

 

減災や心がけ、準備とは言われますが、私の場合、まったく予測もつかず(あたりまえですが)どうしていいかわからないというのが本音のところ。

情けないことですが「本当に」です。

だから考えないようにしようと思いつつも「今日は来ないでね」と内心念じながら日々を過ごしています。

 

さて、相良の田沼城とは安永元年(1772)に最高で5万7千石を領する大名となった老中田沼意次の城のことを言いますが約12年をかけて安永九年(1780)に完成し、天明八年(1788)までに破却されるまでほんの僅かな期間相良の町にその雄姿を示しました。

寺に伝わっているその件、当初の相良城の候補地は現地では無く「鉢形」だったという伝承があります。

鉢形は相良の扇状地を見下ろす、大沢の上方、鬼女新田というかつて武田勢が高天神城に向かった塩買坂へ通じる台地のことを言います。舌状台地の東側の縁という感じでしょうか(場所はここ)。

 

400年以上前に菊川からやってきた本楽寺がこの山の下に大澤寺と名を変えた寺を建てたと聞いています。

家康の陣場を中心にして今の相良の中心地が発達しますが(新町)スタート時点は湿地の中に6軒しか家が無かったと。

そこに家康の命で大沢から新町に下りたというのが当地での2度目の寺の移転でした。その頃には26軒程度に増えたとあります(大澤寺縁起)。

そちらの寺が田沼城建設中の安永三年(1774)に焼失したことから今の波津に再再建されて220年以上経ったということです(築後60余年で安政地震)。

 

三層天守が建つ予定だったという鉢形から萩間川・天の川を天然の堀とした平城へと変更した理由は「尾張名古屋より高い城」ということに加えて平山城にして防御性を挙げることの意味無用の意見もあったことと思われます。しかし、そもそもその「鉢形」という地について建設するという話はこれまで「なぜそこ?」という疑問がありました。

ピンとこないのですね、あそこの地は。

 

ところが例の小島蕉園の「蕉園渉筆」の中にその鉢形についての記述がありました。

特に宝永の地震(1707)について記述は驚きです。

 

 八形山

相良福岡波津壊地 接続如一邑 百年前海哨殃三邑

西八形山在近 民走而免死

先官赭八形山闢圃益税 瘠土不殖 加之爾来近邑有

風損 可謂無慮矣』

 

今も生きる町名が3つ。それらの町は津波の殃(わざわい)により「接続して一邑の如し」といいます。想像するだけで恐ろしい。これは地元伝承として聞いたものを蕉園が記したのです。 当時から見て100年前の宝永地震の事を記していることは間違いないでしょう。

 

「民は走りて死を免れ」た場所が「西側近くの八形山(鉢形山)」とあります。

私たちの伝え聞いているところは『地震が来たら「小堤山」』です。そうずっと聞かされていましたし拙寺「地震記」でもそれを実践していますね。

 

ということから「鉢形山」と「小堤山」は同じ山あるいは現在の鬼女新田から東側の丘全体を総じて「鉢形」と呼んでいたのだと思います。「小堤山」=「鉢形」であるならば小堤山上方(現在の泰盛寺さんの上?)を相良城の候補地としたとしてもそうイメージとしてはかけ離れたものでは無いと思います(名古屋城より高くなるかは微妙ですが何より町に近い)。

これまでの初期候補地として言われていた鬼女新田の東では釘ケ浦と呼ばれる駿河湾の大井川側からの城の威容は窺えられるものの御前崎寄りの海上からは目にすることは出来ないはずです。

ところが小堤山上方であれば、市内もごく近く、駿河湾各方向からも城を確認できる位置になります。

 

画像は約40年前の相良町内有志によって出版された田沼意次顕彰の冊子から。

当時は本気で天守閣を再建しようという意気込みがあって町民が燃えていた時代がありました。

いまや世も移り、そのような声はどこからも聞こえなくなりました。

 

蕉園もその節の終わりに100年経っての当時の避難地としての役所管理についてボヤいているようです。避難地としての気軽さからいっても蕉園記載の「八形山」は「小堤山」で相違ないでしょう。

「前に居た代官は赭(はげ山)の八形山に圃を闢き(開墾)し税を益すも、土は瘠せ殖せず・・・」のところ鉢形の描写、興味深いですね。木が生えていないという場所のようです。

 

檀家さんには口では「地震が来たらまず逃げて・・・」とは言うものの私自身はきっと逃げきれないと思いますね。

あれもこれもと連れて行かなくてはならないものがたくさんあるのと、果たして庫裏も本堂も次回ばかりは壊滅を免れないのではないでしょうか。

何を考えても始まりませんが・・・。