遠州錯乱の典型  殺して殺され  曳馬城 江馬時成

さらに曳馬(引馬)城。家康が攻め取る前の混乱の曳馬の城について飯尾連龍について記しましたが、彼が駿府で謀殺されたあと曳馬城を守ったのが飯尾家家臣の江馬加賀守時成と江馬安芸守㤗賢の同族です。城に残された家臣団としては連龍の死によっていよいよ「今川氏真は敵(かたき)」という方向性は決定的となりますが、次の課題が残っていました。

 

それが三河の家康と甲斐の信玄双方の懐柔政策です。どっちにつくか・・・。

曳馬城残存勢力主体は上記江馬家の両人でしたが、当初江馬時成は城主飯尾連龍とともに家康友好の線を辿っていました。にも関わらず、城主飯尾の心変わりの隙(今川家への詫び入れ)によって、結果、滅せられてしまったということから、江馬時成もその城主の優柔不断さによる結末とはいえ反省点多々残ったはずです。

 

気持ちとしては主君を討った今川を見限って岡崎(家康)の支援を待つという腹積もりだったことは疑いないところです。

心理的に落ち込んでいたと思いますがそこに従弟の㤗賢は武田信玄配下秋山信友の工作を受けて、時成を殺してしまいます。

もともと「岡崎か甲斐か」のテーマで城内は2分されていたところ、それも煮詰まって険悪の雰囲気にあったことでしょう。

時成の死を知った家臣の小野田彦右衛門という人がさらに江馬㤗賢を討取ってしまい曳馬には飯尾連龍の奥方の女城主「お田鶴の方」を残して「城将誰もなし」の状況となったわけです。

 

考えてみればあの状況、岡崎か甲斐かの選択を迫られていたら若い家康よりも熟練の信玄を選びたくはなりますね。

結果的に「若さ」の方が勝ったのでしたが・・・。

若さには「若気の至り」があって独り善がりで省みない暴走が付き物ですが、それに生き残れるかは力量もさることながらツキ次第。

まずは三河と甲斐の件、「健康と寿命」がモノを言うという感じがしないでもありません。生かされているタイミングというものも重大ポイントですが・・・。三方ケ原から信玄の死まで見てそう思います。

 

画像は白華寺(場所はここ)。

朱色の本堂の背後に階段がありますが、そちらを上った場所に江馬時成の墓と江馬殿松。崖っぷちです。冬場の図で遠くが丸く見えました。段丘の上の墓と松の脇の石標には4代目の松の件が。

③画像は本堂裏にあった石仏。私はただ誰というでもない一石もののかわいい五輪塔に目が留まりました。

 

他の画像追記→9/9