嵯峨源氏発祥   融(とおる)流  分流夥し  私の入試

日本文化の最たる代表的風雅・芸術に「書」の世界がありますが、特に平安期の三大書家、「三筆」というくくりは一番に耳にします。おそれいるのはそのスジの大家として天皇自身が名を連ねているということですね。その名は嵯峨天皇です。

因みに三筆のうち残りの二人は空海と橘逸勢。

 

大学入試日本史では当たり前の御三方ですが、三筆の場合は諸時代の三大家(上記は平安期)としてピックアップされていますが、その世界では絶対的に「これしかない」といわれる「三蹟」の小野道風・ 藤原佐理・ 藤原行成の方は不動の地位でどちらかといえばこちらの方が試験には頻出、チェックポイントとして臨んだものです。

 

忘れもしない私の受験(私大法学部 英国社三教科)した数少ない合格大学(2校)のうち、入学した方のその年の試験はまさに私の為に作られたようで有り得ない問題が集まりました。

通常私の目標得点はざっと英語60点国語60点日本史100点でギリギリ滑り込みの合格狙いでした。ただし試験に満点をゲットすることは殆ど不可能ですので得意の日本史といえども90点が限界、あとはどうやって他の教科で「幸運」を掴むかがポイントでした。

ということで「数打ちゃ当たる作戦」。うまい具合に出題に恵まれず負け戦を重ねていたのですが、あの時の試験だけはこのうえなく幸運で思わずニヤリとしてしまいました。

 

日本史は満点近い得点が期待できたうえ、国語は何故か苦手の漢文と古文が出題されず、その時は「文学史」に特化されたような出題でした。まるで日本史を2回、そして英語を受験したようなものでした。

そして英語最大のポイント、英作文のキーワードは「葬式」という語彙。今では当然の如く広く使用されていますが、当時学校ではあまり教わる事が無かった言葉で「The ceremony」を使用しました。

合格発表は「奥の墓道」同伴で見に行って(確信に近いものあり)、気を良くして新宿まで出て私のオゴリで映画を見たことを思い出します。

 

オリエンテーリング後のクラス名簿を見て、「こんなものだ」と再確認したものです。個々の特殊事案ではありますが・・・

小田原時代教師だった父にお前は「小田高は諦めて相良に行け」というのが私が中3で相良に来た主な理由(父親のプライド)だったのですが、その小田原の中学時代に優秀だった顔見知りの小田高出身者2名がクラスに居たこと。

他にも当時静岡県内で片手の指におさまる名門の静高、藤枝東等の出身者が同座したことですね。

当時の私の目標は「どこかに引っ掛かる事」でしたが、今となってはくだらぬことだとわかっていても大学に進学できた実感と歓びはひとしおでした。

また人生とは努力より運・不運に左右されるということを知りました。そういう意味では息子たちも同様でした。

・・懐かしくまた余計な事をことを記しました。

 

さて、嵯峨天皇といえば子だくさん。

他の天皇も同様であったことは推測できますが、殊に嵯峨天皇は男子に恵まれています。

昨日記した河原左大臣源融が十二男ですからね。

十二男の源融の窺える豪奢な生活から見て、他の兄弟も似たような感じであったでしょうから世間から白い目で見られることは勿論、いくら何でも宮廷資金はひっ迫し経済的に困窮するでしょう。

また、当時皇室に男子が多数いるということは皇位継承争いが頻発して、不穏分子を多数皇室に抱えるということになりました。

 

ということで嵯峨天皇が考えたのは「臣籍降下」(しんせきこうか)。子供たちに「源姓」をあたえ、継承のスタートラインには立たせないということですね。

嵯峨天皇は32名の皇子皇女を降下させています。

源融は「融流嵯峨源氏」の祖と呼ばれていますが、ここでも他の兄たちを差し置いて頭角を表して行ったのも幸運というものに恵まれたのでしょう。

ただしこの「源」は後に私どもが耳にする武士の棟梁、「氏長者」としての「源氏」とは異なって、これは清和天皇からの「源」です。その流れの「河内源氏」というくくりになります。

 

平安期に嵯峨天皇DNAがあれだけの数ばらまかれ、さらに息子の融から嵯峨源氏本流と支流を各地に広げています。嵯峨天皇が「御先祖さま」を名のる家がかなり多いことが想像できます。よくその手の事を耳にしますが、この件はまんざら眉唾でも無いというところがあるのです。

 

どこかで単純計算式を記したことがありますが、今の日本人の血にはどこかしら彼らの血が交錯していることはほとんど間違いないでしょう。

島国日本の住民は「みんな親戚」と言われる所以ですね。

嵯峨源氏の子孫としてよく言われるのは松田聖子(筑後蒲地家)ですし、先日記した「松浦」姓(遠州は確証なしですが)なども嵯峨源氏流と言われています。

 

画像は清凉寺境内。①嵯峨天皇の宝篋印塔といわれる石塔②は並んで建つ(伝)橘嘉智子―檀林皇后の墓。夫婦仲睦まじくという感じですが、時代的に素材にはズレがあって信憑性は今一つ。

見た目は昨日記した源融の石塔の方が立派。まったくアテになりませんが宮内庁がしゃしゃり出ていないというところがその真偽は微妙に思うところでもあります。

③④は清凉寺開祖の奝然(ちょうねん)の墓と言われるもの。⑤⑥は聖徳太子殿八角堂。浄土系の寺ということで当流と同様、聖徳太子は大切なひとでした。