天下城普請は石の手配から  我が城はボロがいい

信長の傑作といわれる安土城あたりから、城といえば天守台石組の上にそびえたつ天守(天主)にガチガチに石積みで固める虎口やその縄張りという考え方が一般的になったわけです。

秀吉、家康もそれら城の威容を踏襲したわけで立地は山の頂上から平城へと場所の変遷はあったものの天守と石組は基本でした。

 

やはりこれも慶長二十年という年が大いにその後を左右したわけですね。

その年をざっと整理すれば

4月  大坂夏の陣

5月  大坂城落城  豊家滅亡

6月  一国一城令

7月  武家諸法度 → 「元和」改元

元和二年4月 家康逝去

 

すべてにおいてまず完璧なお膳立てをして家康は死んでいったわけですね。

 

大坂の始末のあとは矢継ぎ早に事を進めています。

特に武家諸法度は将軍継承の度に改定されて諸大名の行動を規制していきました。

武家諸法度の適用は当所は外様潰しの感、一番に思いつくのは福島正則の改易です。

元和五年(1619)、家康没後のこと、台風被害で壊れた広島城の本丸その他二郭三郭や石垣の修理に関し、その許可を事前に幕府から得ていないということが理由でした。さすがに家康が生きていればまさかそこまで非情なことにはならなかったとは思います。 壊れたら取り敢えず放っておくことが肝要でした。

ただし難癖以外の何ものでも無かったことは事実ですね。


この一国一城も武家諸法度も例外はかなりあって人によって柔軟に事情を勘案しながら・・・、別の言葉に変えれば、徹底しつつも幅広い解釈の仕方OK、スタンダード無しの気分次第というところもあったような気がします。

将軍の「鶴の一声」が何よりの時代でしたからね。

 

さて城の大型天守化は江戸期の一国一城令が発せられてからは逆に主城ただ一つに維持財力を傾注できたことから諸大名としてはやり易かったでしょう。

しかし、幕府側の意向として諸大名懐事情の圧迫ということも兼ね備えていましたので各大名に責任を負わせて完成させるそれら天下普請(土木工事)の維持はもはや幕府に刃向おうという気力さえも失せさせたことでしょう。

 

ざっと羅列すれば

江戸城、大坂城、名古屋城はじめ駿府城、二条城、彦根城

越後高田城、伊賀上野城、美濃加納城、越前福井城、近江膳所城

丹波亀山城、丹波篠山城

 

①~④名古屋城②③④虎口は加藤清正が普請したといわれます。⑤~⑨大坂城。

 

⑩画像は釈迦山百済寺喜見院仏間にかけられた板絵着色額より。

信長が百済寺を焼き払ったあと、その命で背後の山から石を彫り出して安土城へ運ばせている様子だといいます。

安土城の築城を描いた映画「火天の城」の一場面にこんな図があったような気がします。

⑪は国立歴史民俗博物館蔵 江戸図屏風左隻(部分) 。